8 3月 2010
昨夜の第82回アカデミー賞の授賞式にApple CEOのスティーブ ジョブズが飛び入り出場したことが話題になったが、その場でApple のCMも正式版が公開された模様。(下記がその正式版 前回にお届けしたのとは楽曲が違う Apple.comでも視聴可能)
受賞作品群はこちらの公式サイトで確認頂けるが、長編アニメ賞を受賞したのがピクサーの「カールじいさんの空飛ぶ家(原題:Up)」だから、筆頭株主のジョブス氏も呼ばれたのだろうとのこと。
アバターVSハートロッカー(Hurt Locker)の二大対決が注目されたベストピクチャーは後者に軍配があがった。女性監督の受賞はアカデミー史上初めてとのこと(むしろこちらが受賞のポイントだったのだろう)。ハートロッカーは6冠、アバターは3冠と両方とも大したものである。ハートロッカーは戦時下のイラク・バグダッドで爆発物処理に従事する特殊部隊(EOD: Explosive Ordnance Disposal)の活躍を描くサスペンスドラマでオリジナル脚本賞も受賞。個人的には筆者のお気に入り のマット・デーモン (Invictus)が受賞を逃したのと、District9がノミネートされてたことがサプライズだったが、今回のアカデミー賞は世相を反映してかかなり政治色が強いのが伺える。(グランプリのハートロッカーは勿論のこと、ドキュメンタリーで受賞したのは捕鯨イルカ漁をテーマにしたCoveだし、District9はアパルトヘイトを話題にした異色作だ)
ところで、以前CESで見つけたCNETの日英文の違いのように、今回は日系メディアの<誤訳>に気づいた。短編アニメ賞の受賞作Logorama(仏作品)の受賞スピーチを日本のメディアも報道しているのだが、「60分の映画に6年間の歳月!」というのと「16分の映画に6年間の歳月!」という二つの表記がある。「短編」なのだから16分が正しいはずと思い、原文をチェックしてみたらやはりその通りだった。(公式サイトの受賞者(Acceptance)スピーチから下記にママ引用)
Good evening. It doesn’t look like, but it’s a French film. Sorry about the accent. I’m the producer of the film, so I have to thank the 3,000 non-official sponsors that appear in the film. And I have to assure them that no logos were harmed in the making of the project.
This award has to be shared with the incredible people who made the film. All the team, and especially the three directors that are with us in the theater tonight: François Alaux, Hervé de Crécy and Ludovic Houplain. You can applaud them, the directors.
Thanks for them. They have been working for a very long time on this film. It took, like, six years to make this 16 minutes, so I hope to come back here with a long feature film, in about 36 years. Thank you very much. Bon soir.
ていうか、ここでの16と60の間違いはメディアとしてはお粗末すぎる。おかしいと思ったら、せめて原文をチェックするくらいの努力はして欲しいものである。(しかも何故か、誤訳をそのまま伝えた二つのメディアはシネマトゥディにクレジットしているが当のシネマトゥディは16分になってる。やられたか!?) 日本人の英語力向上についての貢献策をいつも考えている筆者としてはこういうのは妙に気になるのである。
(誤表記)
Goo映画 アカデミー賞短編アニメ賞は『ロゴラマ』が受賞!「60分の映画に6年間の歳月!」【第82回アカデミー賞】
@ニフティ映画 アカデミー賞短編アニメ賞は『ロゴラマ』が受賞!「60分の映画に6年間の歳月!」【第82回アカデミー賞】
(正表記)
シネマトゥディ アカデミー賞短編アニメ賞は『ロゴラマ』が受賞!「16分の映画に6年間の歳月!」【第82回アカデミー賞】
2 3月 2010
最近ネット上でよく見かける「~すぎる」ナントカという表現がある。冬季オリンピックに関するネタでもたくさん使われた。
例えば「可愛」すぎる選手、とか「美人」すぎるフィギュアスケーター、とか。可愛すぎる海女さん、なんてのも違うところでは見かけた。
ちなみにこの文法は「切れすぎる」ナイフ、とかとは意味が違うし、名詞+過ぎるという表現は一般的な日本語にはなかった表現だ。
コトバは時代と共に移ろうものであるから、筆者は勿論それらを使うかどうかは本人の自由でいいと思っているし自分でも使うこともある。
が、英語学習者においては注意頂きたい点がある。それはこれらの日本語のロジックが英語を話す際に影響することが頻繁にあるからだ。
よく言われるように、筆者もまた習得する外国語のレベルは母国語のそれを超えないという理論を信じる者であり、逆に英語のように日本語とかなり異なる言語を習得することで母国語にも(おかしな日本語になるとかそういうことではなく)いい意味で影響が出るということを体験している。これは英語の上級者になれば誰しもが経験していることだと思う。例えば、ポイントがない話が苦手になる。自身の主張が明確になるし、相手が聞いたことにきっちり答えてくれないと何だかすっきりしない、みたいなことだ。(だからといって、日本人独特の「あ・うん」の呼吸みたいなことが出来ないのかと言えばそうではないのだが)
で、この氷原の何が問題かというと、「~過ぎる」という表現に慣れてしまうと、それに該当する英語の表現として使われがちな” too ~ to ・・・” (・・・するには~すぎる)というフレーズを使う時に、後半をすっとばして話してしまう癖がつく可能性があるということだ。
例えば、美人で評判のある女優について話をする際に “She is too beautiful!” みたいに言ってしまう可能性がある。場合にもよると思うが、これだと聞き手がキョトンとして、続くコトバがないと思わず ” to WHAT?” と聞き返されてしまう可能性がある。筆者の体験では少し違う用法だが、まだアメリカに来たばかりの時に、友人と別れ際に “Take care!” と言おうと思って、 “Be careful!” と言ってしまったことがあり、その際にその友人はびっくりして、”of WHAT??”と言われてしまった。(それくらい周囲には危険が潜んでいるようには見えなかったということで、彼女は私だけは何かに気づいていると思ったのかも知れない)
同じように、このままいくと例えば 「~ しなさ過ぎる」 とか 「~ なさ過ぎる」という表現をそのまま英語にしてしまう可能性がある。無いものは無いのだから、無さ過ぎるというのは英語では理解不能になってしまう。また、英語では言わなくても分かることは省いてもいい場合があるので、これを英語にする時に例えば “Too small!” と言うと場合によっては通用することもあるかも知れない。(例えば誰かが書いた字があまりに小さくて見えない場合など to see もしくは to be seen が省略) が、”Too NOTHING!”とか間違っても言ってしまわないように(笑) これだと二重に間違っていて、意味が通じないどころか相手は混乱するだろう。英語学習者の方はぜひともご注意頂きたい。日本語を崩して話すのは問題ないが、正しい形が何かを理解できてなかったり、正しい形を話せないようになっていると思わぬところで弊害がでる、というお話。
17 2月 2010
これもある日の禅寺での話。
発音に頭を悩ませている一人の学僧がいた。
ある日のこと最近学んだいくつかの語彙を試そうとして、練習相手となる英語を母国語とする和尚を探していた。
そこに年配のジャック和尚が通りかかった。
ところが会話を続ける中で、ジャック和尚が何度も自分の言うことを聞き返す。あまりに聞き返されるので、その度に学僧は自信がなくなり少しずつ発音を変えながら試してみた。そうするとますます先方が聞き返すようになった気がしたので、すっかり自信を喪失した学僧は会話を途中で打ち切り、とぼとぼと違う相手を探して歩き去ってしまった。
そこをスティーブ和尚が通りかかった。挨拶をするまではよかったが、スティーブ和尚が話しかけるとジャック和尚はまた何度も聞き返すのである。二度ほどそんなやり取りが続くなかで、その様をじっと観察していたスティーブ和尚はあることに気がついて、こう言った。
「和尚、補聴器が外れていますよ」
そして、耳元にあった外れていた補聴器をあるべき場所に戻してやった。会話は元に戻った。
ところで学僧は今度はインドからやってきたシン和尚と話すことにしたのだが、今度はシン和尚はずいぶん苦い顔をしっぱなしである。学僧はまたしても自分の英語に自信を無くしてしまい、とぼとぼと寄宿舎の方に帰っていった。
そこをまたスティーブ和尚が通りかかった。しばらく話した後であまりにもシン和尚が苦々しい顔をしているので、どうしたのかと尋ねた。どうやら朝から虫歯がうずいて痛くてしょうがないらしい。スティーブ和尚はもっていた痛み止めによく効く生薬を手渡して去っていった。
忘れ物に気がついて寄宿舎の方から戻ってきていた学僧はたまたまその光景を眺めて、自身に足りないものが発音ではなかったことに気づいた。
12 2月 2010
世界のどこかの片田舎、とあるところに「コトバ」を学ぶための禅寺があった。
そこには世界中からいろんな言語を勉強する上で、学習に行き詰った者たちが『学僧』として修行をしていた。
ある日、周りの英語学僧たちに対して自慢のボキャブラリーを披露していた若い学僧がいた。この者は自前でつくった分厚い単語帳をいつも持ち歩き、研究論文で使われる学術的な単語や医学用語などに滅法強かった。そこをスティーブ和尚が通りかかった。
次の日、スティーブ和尚はこの学僧を誘って、別の場所に赴いた。最初に行ったのは子供達がいる寺子屋だった。
そこには世界中から集まった英語を流暢に話す子供たちが大勢いたのだが、学僧には彼らの言っていることがほとんど理解できなかった。
次にスティーブ和尚は、また違うところにこの学僧を連れていった。そこには今度は世界中から集まった英語を母国語とする人たちが学術的な内容でディスカッションをしていたのだが、アクセントが強い者が多く、また会話のスピードがあまりにも速かったので学僧は会話にほとんどついていくことができなかった。学僧はすっかり意気消沈してしまった。
その夕、自分の部屋に戻るやいなやその学僧は数十年かけてつくってきた自慢の単語帳をズタズタに破いてゴミ箱に捨ててしまった。
8 2月 2010
出張準備をしながらも、ついつい立ち上げたばかりのideaspringの管理作業などをしてしまう。。。
今回驚かされたのが Ning の言語ローカライズのシステムのすごさである。便利だし、かなりフレキシブルで、これは本当に驚きだ。
Facebook でもユーザーが翻訳するエンジンを取り入れていたし、グーグル翻訳なんかでも最近は自分の訳文を提案したりする機能もある。
しかし、Ning のすごいところは、自分のネットワークのローカライズを詳細に渡って管理者が変更できるところだ。しかも、ネットワーク内で使用される日本語表示を変更しても、Ning そのものがもつ翻訳メモリーには反映されていないようでこれがまた驚異的である。(というか逆に反映させて欲しくないのは言うまでもない、誰もがいじればめちゃくちゃになってしまうので) つまりオープンソースと同じような発想で、自身のネットワークがそれぞれ開発のブランチをもっていけるようなものだ。なので、例えばトップのタブの部分だけを英語にして他は日本語にしたりとか、その逆とか、あるいは一部の分かりにくいものだけを日英両方で設定したりもできる。自分で管理されてる方は既にご存知だったんだろうと思うが、この便利さは筆舌に尽くしがたい。筆者の場合はメニューなどを見ていて、いくらバイリンガルでも漢字が読めない人にはフレンドリーなGUIじゃないよな、と思いながら一部を手直ししようと思ったところがきっかけだったが、想像以上に便利だったので驚いた。翻訳管理ツール自体はよく見慣れたXMLベースの画面なので、中で出てくる構文タグなんかも懐かしく映った。(オンラインゲームの翻訳ではこいつに相当手こずらされた訳だが、昔の敵は今の友である)
下記がその画面
対応言語も多いし、自分で追加することもできる。また他のネットワークで使われた翻訳ファイルをそのままインポートすることも可能だ。アメリカでできたSNSだとは思えないくらいの多言語への配慮ぶりだ(失礼) ちなみに、もっとすごいことに、このローカライズは原語である「英語」にも対応している。つまり、特定の単語や言い回しを自分の好きな風に変えることができるのである。これはまたすごいことだ。かなりフレンドリーなSNSやツンデレ系、あるいはアニメ口調のSNSなんかが出来てしまう、日本でも局地的に盛り上がりそうだ。(関西弁のとかあったら面白いかも)
言語は間違いなく日本のSNSに外国人が参加する際の障壁になっているが、これまでは日本語か英語か、みたいなオプションしかなかった。日本人だけでやっていたら必要ないのかも知れないが、国際化の波はとっくにきているのだから、こういう部分にお金を使ってみてもいいのではないだろうか。どれだけ言語で不自由するかを知るには、中途半端に分かる英語や中国語のSNSを見たりするのではなくして韓国語とかアラビア語とかが目覚まし代わりによかったりして(笑)
7 2月 2010
昨年の紅白にスーザン・ボイルが出て歌った曲がこの “I dreamed a dream”であるので、もはや聞いたことが無い人はいないくらいだろう。イギリスの「スター誕生」的番組で一躍渦中の人となった女性がこのスーザンボイルである。実は筆者の妻(愛称はたえちゃん)も彼女の歌声に魅了されて、CDも購入し、車の中で聞くようになった。
もともとスーザン・ボイルのことを紹介したのは筆者だったが、実はあまり歌詞をちゃんと考えて聴いたことがなかったので、運転中にそれとなく耳を澄まして聴いていると、タイトルがひっかかるようになった。「夢 破れて」とはどういう意味か、と。 歌の背景をよく知らなかった筆者は正直(恥ずかしい話だが)最初は誤訳の可能性もあると思って、一度歌詞を読んで自分なりに研究してみようと思っていたのだが、今朝ひょんなことからそれをする時間が少しあったので調べてみたらネットでも歌詞の意味を気にしている人がかなり多いよう。(ちなみに紅白で歌われたのは歌詞が少し違うバージョンではないかという意見もあるがそこまで詳しく調べていない)
そこでまず英語の歌詞を実際に読んでみた。(下記はネットからとったものなので、ひょっとしたら間違っているかも知れないが)
There was a time when men were kind
When their voices were soft
And their words inviting.
There was a time when love was blind
And the world was a song
And the song was exciting.
There was a time …then it all went wrong…I dreamed a dream in time gone by
When hopes were high and life worth living,
I dreamed that love would never die
I dreamed that God would be forgiving.Then I was young and unafraid,
When dreams were made and used and wasted.
There was no ransom to be paid,
No song unsung, no wine untasted.But the tigers come at night,
With their voices soft as thunder,
As they tear your hope apart
As they turn your dreams to shameHe slept a summer by my side.
He filled my days with endless wonder,
He took my childhood in his stride,
But he was gone when autumn came.And still I dream he’ll come to me
And we will live the years together!
But there are dreams that cannot be
And there are storms we cannot weather.I had a dream my life would be
So different from this hell I’m living
So different now from what it seemed
Now life has killed the dream
I dreamed.
? なんだか、様子が変である。本当に「夢」は破れているようにしか聞こえないし、しかも、内容は思っていたよりもなんだかむごたらしそうだ。
特に
But the tigers come at night,
With their voices soft as thunder,
のあたりが妙にひっかかる。何故 Tiger(S) と複数形なのか、そしてその後には shame という単語。これはもしかして。。。と思って今度は歌の背景を調べてみることに。そこでこの歌がもともとはレ・ミゼラブルの楽曲の一つであることを知った。(昔芝居を見たことがあるはずなのに。。。)
劇中でこの歌を歌っているのはファンティーヌという女性で、第一幕で歌われているようだ。
ちなみに筆者は自他共に認める国語人間である。将来の目標の一つにノーベル文学賞の受賞というのがあるくらい、文学だろうと詩だろうと俳句だろうと漢文だろうと、言葉というものにはこだわりがあるし、言葉に対する美的感覚というものには非常に敏感なものをもっている(と、少なくとも自分では思っている)。
そして、その観点から言うと、これはまさに言語を問わないことだと思うが、このレベルまで有名な詩になってくると一行一行の中に無駄というものが一切なく、全てに意味がある。まさに推敲に推敲を重ねられているはずである。時を超えて人々に愛され続けてきて名を残す作品というのはそういうものだ。
なのでこの詩が含む単語一つ一つ、一行一行の意味とそれぞれとの関連性、韻の踏み方などには全て意味がある。それが文学という芸術である。
筆者はここで虎を意味する Tigers が複数形になっている時点で、この詩は娼婦によって謳われたものではないかと気づいたのだが、恐らく英語に親しみのある人物なら同じようにパッと気づく方は多いのではないか。これは英語学習の際に文法を超えたところで生きた英語を学ぶために必要ないわゆる、「気づき」をもった者であれば察することができる『伏線』的な語感の話になるのだが、これは筆者が提唱するZEN (禅)ENGLISHのコンセプトを伝えるのに分かりやすい教材だと思ったのでブログで取り扱うことにした。
その背景として理解頂きたいのが英語と日本語がかなり違う言語であるということである。違う言語なんだから当然だと、いう声が聞こえてこないのだが、その「違い」の意味を正しく体得していないと英語上級者への道は開かれないと思う。
ではその心は… 続きを読む
16 1月 2010
日付をバックデートしてブログが書けるのがワードプレスのいいところだったりして、後になったらちゃんと時系列でエントリーを入れてるように見えるし(笑)(このブログ実際のエントリーは1月22日)
というわけで、TEDXTOKYOの新年会に参加してきました。東京に二泊の出張で着いた翌日に日帰りでソウル出張、その帰りに羽田から会場である恵比寿のMLSカフェに、というハードなスケジュールだったけれどもそれでもぜひとも参加したかったTEDXTOKYOの新年会(会の画像はこちらでも確認できる)。
TEDは非営利団体によって運営されており、スピーチや会合を通して優秀なアイデアを世界に広め、啓蒙し人々をつなげる活動を行っている。運営しているThe Sapling Foundationの創設者は最近FREEという本で有名になったクリス・アンダーソン。
名前のTEDはそれぞれTechnology、Entertainment、Designを意味し、それぞれの分野から第一人者が壇上に立ち18分とかの制限された時間内でプレゼンテーションを行う。過去の動画はYouTubeやTEDのサイトで視聴することができる。TEDのBrain TrustにはGoogleの両創業者やアマゾンCEOのジェフ・ベゾスなども名を連ねており、過去のスピーカーにはそれこそスティーブジョブズやアル・ゴア、ボノ(U2)など超有名人も含まれているが、基本的には世界に誇るプレゼンテーションを行うことのできる、それぞれの業界の超一流の専門家ばかりである。
↓TEDをご存じない方々のために
TED公式サイト
TED ウィキ
TEDXTOKYOは2009年から日本で本格的に指導したTEDとは独立した(!?)関連団体で今年は5月15日に行われる予定で、今回は光栄にも主催者側からお招きを頂き、現地にて設立者のPatrick NewellとTodd Porterのご両名に会って自己紹介と共にスピーチの内容についてお話させて頂きアドバイスを得た。(参加者が多いので、筆者のような若輩者がその栄誉あるスピーカーの地位を得られるかどうか分からないが、自分なりのアイデアがあるのでそれをまずはぶつけてみようと思っている)
(現地でお会いした方の中に日本アイビーエムの勝屋氏という方がいらして、現地で撮って頂いた写真をブログで拝見したのでこちらにも貼らせて頂きました)
とにかくこのイベントは洗練されている。参加者はほとんど皆バイリンガルで日本を変えようという意気込みをもった志の高い人ばかり。会場にはTEDの過去のビデオが大型円形スクリーンで上映されており、迫力満点。勝屋氏が言われているように熱気ムンムンという感じだった。
参加者で私が知っていたのは先ごろLAのメディアイベントでプレゼンをされた会田哲也さんくらいで、幸いにも会田さんを早いタイミングで見つけて設立者を紹介してもらったという流れだった。参加者は招待制でかなり厳選されていたらしいが、それでも225名集まったとか。新年会というので筆者の頭の中にはまったく違う図が浮かんでいたので行ってみてびっくりした。
22 10月 2009
小学5年生の時、親友の一人のお母さんがESLの講師をしていたこともあって、仲間4人でそのお母さんから英語を2年ほど教わった。その中では私が一番熱心に勉強していたように思う、外交官を志し始めたのはこのすぐ後くらいではなかったか。今でも覚えているのはいくつかの新しいフレーズを勉強していた時に、自分が使っていた鉛筆を見失った私がとっさに ” I lost my pencil!”と叫んだ時のこと。思えば私の周りの最初のトリリンガルだった先生が、満面の笑みで ”Wonderful!” と言ってくれて違う鉛筆を差し出してくれてとっても嬉しかったことを今でも鮮明に覚えている。その後「家出のドリッピー」をやってみたり、英語に関してかかれた書籍を読んでみたり、地元の国際交流センターに足繁く通ってみたりと、生きた英語(正直受験英語は苦手だった)を学ぶことにはかなりの時間を費やしたように思う。大阪府下で最初の「国際教養課」なる珍しいカリキュラムが採用された年、その一期生に名を連ねることに何のためらいもなかった。そこでは本当に英語が上手な教師とネイティブのアシスタントがおり、英語しか話してはいけない授業などもあったため、徐々に生の英語に触れる機会が増えた。もちろんこの時の経験がなければ、19歳で渡米してそのままアメリカに滞在することなどなかっただろう。
最初の英語レッスンから24年という歳月の中で、思えば私と英語の関係が切れることはなかった。そして、今でもいかにして自身の英語力を高めるかについて日々研鑽している。英語というのはそれくらい日本人にとって難しい言語だと思う。これは私の生涯の英語学習を通じての実感である。それくらいロジックやコンセプトが異なっているのだ。たとえばUCLA時代に私が夏期集中講座で韓国語の授業を受けたとき、短期間で第三言語の基礎を身につけるという私の思惑通り、10週間の授業が終わった後には簡単な読み書きはできるようになっており、発音もちゃんとネイティブに通じるようになっていた。2000ドルの授業だったが、あの自己投資は本当に有効だったと今でも思う。(グレードもAでGPA向上に貢献したことも言うまでもない)この第三言語の学習は実は高校時代のフランス語が最初だったのだが、そのときは全くものにならず、韓国語では功を奏した。ここでの自信は中国語の学習にもつながったのだが、このいわばコストパフォーマンスの違いでもっとも大きな影響を与えているのは英語学習で培った柔軟性というよりは、言語間の類似性である。逆にいうとそれくらい韓国語と中国語は日本人にとって勉強しやすい言語だ。これは英語などの西欧の言語をそれなりに勉強してからこの二つの言語を勉強するとものすごくよくわかる。そういう意味では日本人は英語を学ぶよりも、他のアジア言語を勉強したほうが効率もよく近隣諸国との交流やビジネスにもつながると思うのだが、これを声高に主張する人があまりいないように思う。逆に私が冒頭に書いたポジティブな体験と正反対の体験をし、英語について、ひいては外国人とのコミュニケーションについて抵抗感をもってしまった人がどれだけ多いことか。人や食べ物の好き嫌いでも分かるように、一度抱いた抵抗感を払拭するのは並はんかなことではない。それならいっそのことゼロ体験のほうがましだ。時がくれば学べばいいし、その頃には需要に迫られているだろうからそれなりに真剣に勉強するだろう。それを阻むものはない。
前置きが長くなったが、今や35歳で英語歴24年という経験をもつようになった私は何か英語学習者に対して貢献できることがないかと常々思ってきた。それをとりあえず二つの形で世に向けて発信することにした。一つは「絶対語感」というビデオポッドキャスト(長いので何か変わりの言葉は、番組!?)であり、これは日本語の文言に関しては日本語で、おもしろおかしい英語表現に関しては英語でトークする番組だ。もう一つは執筆活動でいわば「ZEN ENGLISH」とも呼べる著書をしたためてみようと思う。といいながら忙しさにかまけてなかなか筆を進められないので、ちょっとずつブログで書いてみることにしようと思う。これは英語の文法や語彙などを教えることにフォーカスを置かずに英語(あるいは母国語としての日本語)に対する「メンタル」を変えることで英語学習の成果を伸ばそうというものだ。私が最近傾倒している「禅」の公案の概念や、愛読している”ZEN ENGLISH”という本にインスピレーションを受けたのはいうまでもない。
たとえば、こういう話をする。誰もが下記のフレーズを英語学習の初期の段階で学んだだろう。
“This is a pen.” (これはペンです)
これは実は英語がもつ単語の「原形」というコンセプトを示す非常にいいフレーズなのだが、実は英会話の教材としてはまったく適当ではない。 何故か?よく考えて欲しい。
このフレーズっていったいどういうシチュエーションで使うのだろう??
“Hi Ken, this is a pen!” “Hi Mike, this is a pen too!” とか?(爆)
考えたことありましたか?(次の段落は少し英文法に対しての説明になるのでアレルギーを持っている方は読み飛ばして、次の段落に進んで頂きたい。意味は通じるはず)
英語における動詞の原形は一般的にはそれが日常的あるいは慣習的に行われているか、継続する「状態」を示す。 “I go to gym.” は普段からジムに通っているというわけで、特定の時制を必要としないのはこの理由である。が、日本語の文法にはこれに該当する表現は一定ではない。たとえば「私は学生です」とはいっても(少なくともこの意において)「私は学校にいきます」とはいわない。代わりに同じ意味で「私は(今)英会話学校に通っています」と言うのは何らおかしくない。しかし、この「~しています」という表現に該当する英語表現は一般的には”(be) doing”に代表される現在進行形であり、これは例えば「(今)食べています」という表現の時には何ら違和感を感じないものの、日本語でいうところの「電話をしている」という表現を英語にすると”(be) calling”となってしまい、今度は英語の意味で「呼び出し中」という意味に近くなってしまう。(I just called to say “I love you”. という歌がある。英語では電話がつながった段階で”called”になっている。通話中は “on the phone”という「状態」である(すなわち原形)。また未来形があまり単語に影響を与えない日本語において、「明日(は)学校に行きます」というのはごく自然な表現であるのに対し、これを英語で原形のままでやると”I go to school tomorrow.”となりめちゃくちゃになってしまう。(sounds familiar!?) (また他の機会に説明するが、このような問題は過去形にも同じ問題があてはまり、日本語の過去形が「経験」を含むのに対して、英語ではこれを「完了形」を通じて表現しなければならない。
ちなみに私がこのフレーズの(英会話としての)意味のなさに気づいたのは、実はつい最近のことである。恐らく私は生涯に、このフレーズを英会話で学ぶ例としてあげる以外は日常生活で使ったことは一度もないだろう。理由は明白で、相手はそれがペンであることをしっているからだ。(もっともペンを見たことのない子供に説明する時には使う可能性がある表現だが。。。少なくとも私はそういう状況に遭遇したことがなかった)英会話ではもちろんこのTHISをTHATとかITに変えて会話の訓練に使う、が、ポイントは日本での英語教育があまりにも実用英会話とかけ離れてきたことであり、これは枚挙にいとまがない。もちろん教科書はどんどん会話を主体とするものに変わってきていると思うし、ガラパゴスが「進化している」と主張するのに反対するつもりはない。が、それが国民全体の英語力の著しい向上という実績につながっているかというと、まったくそうではないと思う。つまりやり方が間違っているのだ。文法を説明するために日常で使いもしないフレーズを一度勉強させるというのは大いなる二度手間である。苦手意識をもたれてもしょうがない。
ZEN ENGLISHでは文法を語らないと言いつつ文法を語っているじゃないか、と言われそうだが、ここでのポイントは上記の文法上の解釈(慣れればこれもきっと楽しいものになると思うのだが)ではなく、英語学習に関する「気づき」(*禅仏教での悟りのようなもの、もちろん次元は違うかも知れないが)の世界の共有である。よく言われることだが、英語が上達する過程において日本語の方もどんどん変わってくる。それは例えば、論理性と明確性を求められる英語を学ぶことによって、日本語特有の(特に自信ですら理解していないほど曖昧な)曖昧性の存在に気づき、それがコミュニケーションの妨げになるということを理解するからであるかも知れないし、「キャッチボール」で進む英会話のルールを知らず知らずのうちに日本語に適用することなのかも知れない、もしくはいわゆる英語の表現独特のポジティブさや率直な愛情表現などではぐくんだ感情が自然と日本語に反映されるからかも知れない。この「気づき」は単なる発見ではなく、自身の考えや行動規範に大きな影響を与え、かつ実際に特定の行動に結びつけるものでなくてはならない。現実に影響を与えない悟りなど何の意味もなく、この点を英語では ”get” という非常に単純な単語で表現することがある。これは単に「分かった」ということではなく、「悟った」という意味である。
簡潔にまとめようと思ったが、言葉に関する話題になるとやはり簡単に筆を止められないようだ。いずれにせよ、興味をもたれた方は「絶対語感」と “ZEN ENGLISH”に注目し続けて頂きたい。
22 10月 2009
今回初めて北京に来たのだが、北京の印象はこれまで訪れた他の中国の都市よりもかなりいい。もちろん好き嫌いは分かれるのだろうが、私はこの落ち着いた街に日本よりもはるかに長い歴史をもつ中国という国の歴史と成熟さを感じる。上海に比べると非常に地味な印象は受けるが、政治機能が集中しているここでは彼の地で感じられるような商売っぽく派手でギラギラした感じはない。それは街ゆく人々の服装にも表れている。広大な中国では行くところ行くところそれぞれでまったく違う印象を受けるが、私はここ北京で中国の一番自然な近代化の例を感じる。現地での要人とのMTGで中国の政治・経済、法整備などについて話が及ぶと、ここ北京では今まで知らなかったことを学ばさせられることが多い。世界一の人口を擁するこの国を動かしている人々の裏事情などを垣間見せられることが多く、最近躍進が目覚ましい中国が単にバブルの波に乗っているというのではなく、周到な計画と大胆な施策のもとに少しずつ前進しているさまが見て取れる。
経済的には、世界一の人口は勿論世界一の潜在的市場を意味する。自動車や携帯市場というメジャーな市場で世界一位の地位を誇る中国は、今や20年前、いや10年前ともまったく違う視線で世界中の国々から注目を集めている。かたやそれと同じ期間 『ガラパゴス』 と揶揄される高度でかつ独自の成長を遂げた日本は世界からの注目を失いつつあると思う。我々が海外に進出した時に恩恵に預かれた「MADE IN JAPAN」のブランド力はどんどん力を弱め始めていると感じるのは私だけではないはずだ。ロビーの力をみても日本の国際的競争力は本当に弱い。「中国はどこにいくのか?」はすなわち「日本はどこにいけばいいのか?」を教えてくれる教科書でもある。私自身がひょんなことから携わることになった、今回の大きなプロジェクトを通じて感じるのはまさにその点であり、これは私にとって教科書や机上の空論ではなく、まさしく現実そのものである。日本(そして日本人)の強みとは何か、日本が国際社会から求められているものとは何なのか、をもっと議論してみたらそこに何らかのコンセンサスは生まれるのではないだろうか。(ちなみに私は『ガラパゴス』化そのものは現実であるので良いも悪いもないと思っている。問題はその現実を無視しようとしたり、歪曲したり、違いを認識せずに逆に海外をガラパゴス植民地化しようとして大敗を喫したりすることである。島の中でのみ快適に生活したいというのが目標であればガラパゴスはパラダイスである、が、このいわゆる「鎖国か開国か」という議論は120年も前に決着がついたはずではなかったか)
余談であるが、最近テストを始めた「絶対語感」ビデオポッドキャスト用のネタとして、市内のあちこちにある英語のサインを見たのだが、煩わされたことはほとんどない。空港のターミナル間をつなぐニュートラム内などで流れる英語アナウンスメントも日本のそれに比べてレベルがかなり高い。これは昨年のオリンピックなどに向けて北京がかなり国際化に注力したということなのかも知れないが、外国人で溢れかえる東京の六本木でみかける英語サインのレベルのあまりの低さが頭をよぎり、この差は深刻だと感じさせられた。教育の目的をどこにおくかを施政者は真剣に協議すべきであり、それは決して短視野的なものであってはならない。政府と教育機関はいっこうに効果のあがらない英語教育にどこまでお金を費やせば気が済むのだろうか。予想通りの結果があがらない時にはその現実を直視してアクションをとる、ビジネスなら当然のことなのだが。。。私にできることは何だろう。
(*写真は今回先方の厚意により手配頂いたホテル。ルフトハンザセンター内にあり、住居棟も隣接している。北京空港からは車で40分くらい。ちなみに北京空港はすばらしい空港だ。)
20 10月 2009
待望のキンドル国際版がいよいよ出荷開始となった。
これから世界市場におけるアマゾンの猛攻が始まる。国際版のローミングが無料なのは確かにすごいことだ。私も早速注文したのだが、これで4台目の購入。キンドルを4台も買った人って珍しいんじゃあるまいか。(これを買うために下位機種となるKindle2の2台は売り払ってしまった。キンドルのコンテンツはアマゾンとの契約で売ることはできないが、De-Registerするだけで誰でもすぐに使えるようになるキンドル本体に対しては中古市場が存在する)これで会社に残っているキンドルは大画面のDXだけとなった。出張から戻ったらオフィスに到着してたら嬉しいのだが。(といっても米国内で使っているだけなら何ら違いはないのだが)
ところで、キンドルは今回も値段を下げたし、またこのたびのスペック改訂は過去の物に対して新バージョンを完全に上位互換とするものなので、そろそろ度重なる価格改訂(まるでアップルみたいだ)に嫌気がさした人も多いのでは?それともまだまだキンドルを購入している層はパスポートをもっていないような人々だと思われているのだろうか。(ちなみにアメリカ人のパスポート保有率は14%ほどに過ぎないと言われている)
今回のキンドル国際版リリースの背景の一つにあるのは過熱しつつある電子ブックリーダー市場で他社を牽制することが一番大きかっただろう。前回の値下げは新学期を迎える学生に対してだった。さすがにクリスマス商戦向けにもう一回下げるとかはないだろうが、この冬のホリデーギフトにはあちこちで重宝されるだろう。来年ラスベガスで開かれる恒例のCES(Consumer Electronic Show)では大量の電子ブックリーダーがあふれているに違いない。またもう一つは著作権問題でなかなか重い腰をあげない海外の出版社に対する牽制、というか挑戦だ。キンドルは英語圏では猛威を震うだろうが、日本・台湾といった市場では一部のユーザーにしか指示されないだろう。(iPhoneのキンドルアプリはかなり売れるかも知れないが、もし対応したらだが)また南北朝鮮と中国には出荷されないようだ。これは3Gのパートナー契約によるものなのか、はたまた違う思惑があるのか。
ところで、業界筋では来年の春頃にもう一度キンドルがバージョンアップするのではないかという見方がある。これはEPUB形式に対応するというもので、ここでさらに値段がさがればかなりお求めやすくなる。だが、EPUB対応にするのにはそれなりのリスクが伴う、現行のフォーマットにしたがうほど著作権管理が簡単ではなくなるだろうから。しかもキンドルストア上のコンテンツの多くに対してEPUBへのファイル変換作業を行うのはそれなりに大変だろうと思う。(ぜひ当社開発のオーサリングツールを活用して頂きたいものだが 笑)
いずれにせよ、アメリカでキンドルストアで日本語や日本文化に関連したコンテンツを販売している当社としては願ってもないチャンスである。単純計算で一気に100倍!とはいかないまでも年内に50倍程度の売り上げになってくれることを願いつつ、コンテンツの大量投入を続けていくつもりである。今月は先月の倍くらいのペースで売れているので巷を賑わすキンドル人気が売れ行きに拍車をかけているのは言うまでもない。米国の大手バーンズ&ノーブルズも新たなリーダーを発表したようだし、乗数で売り上げが伸びていくこの市場、まだまだ先行者利益は続きそうである。出版のご相談はぜひこちらまで!

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