Archive for the 「 開国談義 」 Category

会場は10くらいの部屋に分かれているので、みんな目的の場所を探して歩き回ります。
通路の様子

意力が二つ目にピックしたのはLocation! Location! Location!というパネル・セッション。

パネルディスカッションの様子

パネリストはWayne Sutton(ビデオブロガー、@waynesuton、KS57)、Lawrence Coburn(DoubleDutchの創設者、@lawrencecoburn、KS22) Mike Schneider (大手マーケティング会社Allen&GerritsenのVP、@SchneiderMike、KS45)。
地理情報ベースのサービスの最新情報からソーシャルメディアマーケティングの可能性に迫ります。今もっとも注目を浴びているジャンルだと、後ほどインタビューをした我らがアメリカンギーク界のアイドルCali Lewis (カリ・ルイス, KS77)も言ってました!
印象的だったのはYelpに対してのコメントで、「普段ハンバーガーしか食べてる人に、寿司のレビューをしてもらっても参考にならないじゃないか!」というのがありましたね。ごもっとも。今立ち上げようとしているソーシャルメディアサイトの参考になりました、とても。筆者的には普通の一方通行のプレゼンよりもインタラクティブなパネルディスカッションのほうが聞きやすいですね。質問もバシバシ飛びますしね。

その後はみんなでネットワークランチへ。このコンファレンスに来ている人たちは、一番安いEXPO(展示会)だけのチケットと違い、500ドルとかのフィーを払って、さらにあちこちから飛んでくるということで、ランチは結構豪勢でした。(え、私?もちろんプレス特権の濫用ということでお仲間に 笑)

ネットワーク・ランチョンの風景

10人がけのテーブルがだだっぴろい大ホールにところ狭しと並べられ、ウェイターが頑張って食事を運んでました。メニューはサラダとステーキ、デザートにはムースとコーヒーがでて、フルコースをご満悦という感じです。食わないと書けません、もといつぶやけませんからね!

(続く)

<関連エントリー>
BlogWorld Expo2010 レポート1 ~開幕初日~ コンファレンスデー
BlogWorld Expoの先進的なコンファレンス・セミナー内容

今週から始まる世界最大のソーシャルメディア・コンファレンスであるBlogWorldがいよいよ明日からスタートする。
今アメリカでは空前の盛り上がりを見せている、ソーシャルメディアとソーシャルマーケティングの最前線の模様を当ブログでも(ほぼ独占的に)お伝えしていきたい。Tweetもしていく予定なので、@tachiiri (日本語)か@willtachiiri (English)をフォロー頂ければと思う。

これまでLA在住の日本人の視点でソーシャルメディアブロガーとしての活動を続けてきたが、ソーシャルメディアでは誰もが情報を発信できるだけにインフルエンサーになるためにはどうしても自分自身の「ニッチ」や「個性」というものが必要になる。そして最大の武器は常に「スピード」だ。最近Tumblrでの英語のブログ “Dr.Wil’s Japan Reportz“をスタートしたのを皮切りに英語での執筆を増やしていこうと思うが、ここでもまた一から自分の「ニッチ」を探し出す必要がある。過去の経験がもちろんものをいう訳であるが、アメリカのソーシャルメディアは本当にダイナミックに動いていて、日本は現時点ではかなり取り残されている「村八分」の状態だ。(もともと島国なので致し方ないのだが) 

電子出版についての著作の次はソーシャルメディア関連で何冊か書きたいと考えていて、現在連載中のウィキペディアンの憂鬱と並行して「ソーシャルメディア革命 日本だけが知らない近未来図(仮称)」という本を緊急執筆し始めたところだ。このソーシャルメディアの動きをつぶさにおいかけていると、資本主義の次のパラダイムが見えてくる、そういう結論になりそうなのだが、筆者の考えが正しいかどうかをぜひとも自分の目でBlogWorldで確認してきたい。CEOのRick Calvert氏とのインタビューは現地時間で金曜日の午後7時からを予定している。

というわけで、ご存知の方も多いが、Social Media Revolution 2 の日本語字幕付きの動画を紹介する。筆者が好きなDid You Knowシリーズにそっくりだが、啓蒙的という点では分かりやすくていい。前作のSocial Media Revolutionは230万回以上も視聴されている。

ソーシャルメディア革命

先ほどのエントリーでは日本でソーシャルメディアが成り立つのを阻む大きな理由を説明した。しかし、敢えてそこではソーシャルメディア自体の定義をしなかった。こちらのエントリーでは定義はしないまでも、ソーシャルメディアの意義とその革命の内容ついて詳しく説明したい。

ウィキペディアによるとソーシャルメディアとは「ソーシャルメディアは、誰もが参加できるスケーラブルな情報発信技術を用いて、社会的インタラクションを通じて広がっていくように設計されたメディアである。」と定義されている。英語版ではこれはもう少し詳しく定義されているが、はっきり言ってまだ成立過程にあるこのコンセプトの定義を議論するのはきっと偉い専門家の先生の仕事であって、私のような一介のブロガーの仕事ではない。
ここで重要なのはソーシャルメディアというものがインターネットをインフラとして、人間同士が相互に作用しあうことによって広がっていくメディアであり、情報発信の主体はこれまでのように大手ではなくて個人であるということを理解することだろう。(ここでもまだ情報発信自体は大手でそれを伝えるのが個人なのか、あるいは情報発信自体を個人が行うのか、という部分で曖昧な部分は残されているのだが)

これまでにもきっとソーシャルメディアを語った本やブログはたくさんあっただろうが、ツイッターの誕生と繁栄は多くの識者にとっては晴天の霹靂であっただろうから、定義もまた切り替わっているに違いない。つまり、定義なんてリスクを恐れる者が後付けでやればいいことである。

では本題

まず筆者はソーシャルメディアを(既成概念でいうところの)マスメディアと対極に位置するものだと仮定する。
そして、ソーシャルメディアのインフラとしての本流はやはりネットである。(定額使い放題、時には無料のインターネットはいつだって弱者の味方だ) マスメディアでは情報の選択はあくまでも「大衆」をにらんで大手メディア側で行う。民主主義で行われているはずの選挙の結果である政府の施策が、総じて国民の総意とは違うところにいってしまうのと同じように、マスメディアで取り扱われる記事は必ずしも国民が知りたいところを反映しているとは限らない。というか、マスメディアの奥義は「それを知りたかったんだ!」と国民をして思わせるところにある。そこには国民が知りたくない情報というのは必然的に書かれなくなる、つまりなんのこっちゃない「大本営」の発表と何も変わらない。日本は高度経済成長を遂げたものの、島国根性を抜け出しきれない日本は今、それを全面的に認めて「ガラパゴス島民」としての存在意義を肯定するか、あるいはこれまでみたいに「なんちゃって開国論者」になるかどうかの選択を余儀なくされている、ように筆者は感じている。(誤解してもらいたくはないのだが、この点で筆者はそのような島国根性を抜け出しきれない日本人の代表として、海外在住という視点で論拠を展開している)

で、ソーシャルメディアだが、大きなポイントとしては下記のような性質をもっているのではないか。
(*紙媒体とネットが違うのは明らかな話なので、テレビとどう違うかを理解すると分かりやすいと思うので、今回はテレビや大手ポータルサイトと比較してみる)

1 ソーシャルメディアはマスメディアの対極に位置する。
- 繰り返しになるが、大事なことだ。例えばテレビはテレビ局側が配信内容の全てを決める。ソーシャルメディアは個人が情報を配信し、それがどうスケーラブルに展開されていくかもそれぞれの個人次第である。(ただし現時点では主要収益モデルという点においては、テレビもソーシャルメディアも広告か課金型かというような同様の選択肢しか存在していないようだ)このため、実は例えば読売新聞が運営するソーシャルメディアサイト、なるものは存在し難い。そもそも両者の存在自体が相反しているからだ。
この点でソーシャルメディアがそれぞれの国で成功しているかどうかは、大手メディアと(資本的に)独立して存在する大手ソーシャルメディアサイトがどれくらいあるかを数えるというのが判断基準の一つとなるとも言える。(TECH CRUNCHがAOLに買収された事例は、アメリカではステージが一つ先に進んでいることを示唆するものだ)

2 インターネットに始まり、インターネットに終わるデジタルメディアで一貫したメディアである。
- 電子出版との関連性はこれまで筆者が述べてきた通りだが、紙媒体とはあまり連動しなそうであるし、CMにしても店頭への誘導というよりは、オンラインショッピングへの誘導につながるのが主体である点でネットインフラに特化したメディアである。
テレビはオンラインショッピングよりは実店舗での購買に誘導するのが主であり、購買衝動は購買活動には即時に結びつかないため、継続的な広告活動が重要になってくる。しかしソーシャルメディアからオンラインショッピングへの誘導が起こった場合はむしろ購買は即時型になる可能性が高い。

3 情報を発信するのは「個人」もしくは「個人の集合体」であり、大「組織」ではない。

- ソーシャルメディアは実名、あるいは固定されたハンドル名での記載が原則である。これは権威のある大手メディア媒体とは異なり、個人がそれぞれファンを獲得していく必要があるからで、特に黎明期では必須である。テレビにおいては当然「顔出し」が原則であるので、この点では似ているが、あくまでもそこに登場するのはテレビ局で勤める人間であり、ソーシャルメディアでは記者はフリーランスの雇われかその媒体の運営主自身である。当然大きな責任問題が生じた場合には大手ほどの体力がないため、即時死亡(信頼失墜)もありえる。これは記者としてはある意味当然のことなのだが、日本では雇われ記者が多すぎて、このようなリスクを取ることに慣れていない。(また自由すぎるウェブメディアのフォーマットとルール自体に問題を抱えている方も多いだろう)

4 総合的なポータルというよりは個々に細分化されたジャンルあるいは地域をカバーする
- テレビやポータルでは人的・経済的リソースを駆使して、膨大なトピックをカバーすることができる。しかしながら、そのほとんどが(少なくとも黎明期は)零細企業であるソーシャルメディアの世界では、それでは個の持ち味が活かせないため競争に勝てない。よって必然的に自分たちが得意な分野で勝負することになる。GIZMODOやTECH CRUNCH、HUFFINGTON POSTなどがその良い例である。

5 即時性が命である
- インターネットが紙に対してすぐれている最大のポイントはスピードだ。そして、同じデジタルメディアのテレビよりも速くネットはニュースを世に伝えることができる。勿論この即時性のために正確性を書くことがあってはいけないのだが。

6 独自の視点と論調が成功のカギを握る

- 限られたチャンネルの中で選択されるテレビの世界とは異なり、ネットの世界では選択肢が膨大である。ここで名前を挙げるためには独自の視点と論調が重要である。あるいは一般的に認知された人物が論を展開するのが分かりやすいが、それはマスメディアの延長であり、ソーシャルメディアのコンセプトとは少し趣を異にする。GIZMODOはその論調や扱うトピックなどで独自の位置を築き上げた良い例だ。

7 独自経済基盤の構築
- 今のところやはり広告が主流になってくるが、そもそもジャーナリズムと広告は相容れない。よって、理想的には課金モデルとなるのだろうが、筆者はこの部分に関しては市場の成熟と共にもっと多様なパターンが出てくるのではないかと考えている。勿論寄付も一つの例であり、ハードウェアのレビューサイトなどでは以前から成立している。テレビショッピングなどはソーシャルメディアとしては効果を発揮する部類なので、ここにも活路があるだろう。(例:Will it Blend?、Wikipedia、Woot

8 情報配信あるいはビジネスをスケーラブルにするための仕組みを工夫する
- 今やテレビでもツイッターのアカウントを紹介したり、ひいてはテレビでSNSの宣伝をしたり、SNSを紹介する映画がでたりするくらいなのだが、ソーシャルメディアサイトではネットで広がりつつある流行のアプリについては極力網羅することで、ユーザーが好む手法でニュースを拡散することを後押しすることが重要である。(テレビは一方通行であり、かつインターネットと同じ空間に存在していないメディアなので、これは実現できない)

ここまで話してきて、気づいた人もいるかも知れないが、「人類の集合知」という壮大なニックネームをもって生まれたソーシャルメディアの雄、ウィキペディアはどういう位置づけにいるのだろうか? 筆者は現在このブログにて「ウィキペディアンの憂鬱」シリーズを連載中(出版社求む 笑)だが、ソーシャルメディアを考えた時にウィキという巨人の存在は外すことはできないものだ。しかし、ウィキには「百科事典」でありたいという目標があり、上記に挙げたソーシャルメディアのいくつかのポイントとは相容れない部分を有している。つまりウィキぺディア自体がソーシャルメディアのジレンマの具体例みたいなものであり、今後ウィキがどういう進化を遂げていくのか、あるいはいかないのかを見守ることはソーシャルメディアの行方を占う上で直結する重要事項だと認識している。この点についてはまた機会を改めたいと思うが、例えばウィキペディアは即時性をどちらかという否定する傾向があるし、執筆者が複数で一つのエントリーを執筆する、あるいは自分の専門分野や関連のある分野について執筆することを奨励していないこと、などが挙げられる。

そして「憂鬱」のテーマは<衆愚>と<無知>である。ネットの世界ではみんなが誰しももっている権利と力があるのだが、これについてよく理解できていないとネットの未来は一般的な総意に基づくものにはなっていかない。ネットの世界は「民主主義」のように見えて、断じてそうではない。権利をよく理解してそれを行使していかないと、自然と「白票」を投じたことになり、アクティヴィストの活動をそのまま支援してしまうことになりかねない。筆者のこの一連のエントリーはそうしたことに対する危惧から書かれたのは確かだ。ネットを普通に使っている人の間にもデジタルデバイドの格差は厳然として存在するし、多言語を介する者とそうでないものが有する情報格差もフラットなネット社会ではどんどん拡大していく。

筆者は「電子出版」と「ソーシャルメディア」は車の両輪だと考えている。双方のバランスがうまくかみ合わないと車は前進していかない。で、ここでいう車というのは「ジャーナリズム」なのかも知れないし「メディア」そのものなのかも知れない。電子出版は膨大なコンテンツを有している大手出版社が様子を見ている間に小さな所からどんどん死んでいくという事態になったが、ソーシャルメディアのコンテンツというのは必ずしも大手メディアが「保有」しているものでないだけに、牙城としては草の根でも崩しやすいはずだ。だからまずはソーシャルメディア革命を起こすことを一ブロガーとして支援していきたいと常々考えている。

これまでは、あとほんの少しと見えていたラスト1マイルが意外に遠いのではないかというように感じられてきた近頃。近い例でぞっとするのは日本人の英語力だ。恐らく日本人の英語力は戦後60年間以上の間それほど成長してこなかったに違いないし、日本の世界における経済的地位を考えた時に相対的にはむしろ低下していると言えるのではないか。
その原因を考えた時に行き着くのは「読み書きはできる」という根拠を誤った自信と「日本語と英語の言語構造学的な大きな違い」に対する正確な認識ができていなかったことにあると思う。敵を知り己を知れば百戦危うからず、とはよく言ったもので、逆だと完敗する他は無いということだ。
電子出版が案の定大手主導の形で落ち着きかけ、大きな可能性がどんどん殺されていっているように、意外とこの壁は越えられそうで越えられない「バカの壁」に近いものなのではないかという思いが募ってきたら、急に誹謗中傷を覚悟で書きたくなった。

というあたりで、一先ずここでエントリーを区切りたい。続きをするかどうかは読者の反響次第ということで(笑)

ソーシャルメディアでは存在意義を確定するのも読者であり、つまり「黙殺」が一番の武器である。これまではマスメディアの最終兵器であったこの「黙殺権」を一般が行使できるようになったのが最大の変革と言えるのかも知れない。先のエントリーで紹介した藤沢氏の勝間和代に対するコメントは、つまりそういうことであったのではなかろうか。「良い」も「悪い」も「無視」も含めてソーシャルメディアの評価であり、書き手はそれを真摯に受け入れるしかない。

<関連エントリー>
日本でソーシャルメディアが立ち上がらない10(+2)の理由
朝マックでの出来事 (うぃる爺の弁明 2) 

筆者も拝読した「なぜ投資のプロはサルに負けるのか?― あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方」の著者の藤沢数希氏が10月4日にアップしたエントリーが話題になっている。
勝間和代がネットで叩かれるようになった本当の理由とネット・メディアの未来 と題されたそのエントリーの内容は日本のインターネット・メディアの未来についてかなり重要なメッセージを含んでいると思う。このエントリーの基は勝間和代氏が書いたアマゾンの評価システムに対するブログのエントリーだった。これぞまさにブログを中心にしたソーシャルメディア。今後勝間サイドから反論は来るのだろうか。

それはともかく、ここで藤沢氏はネット・メディアという言葉を使っているが、これは筆者がブログで用いるところのソーシャルメディアと同義であるか、限りなくそれに近いものであると勝手に解釈して話を進めたい。ちなみに筆者も(両者に対して全く無名ではあるが)一ソーシャルメディア・ブロガーとして藤沢氏の下記のコメントには深く賛同するものである。

しかし僕が感じた違和感はこんな一般論じゃない。僕は勝間和代がネットで叩かれるようになった理由はもっと深いところにあると思っている。それは単に有名になってそれに比例して「アンチ」が増えたなんていうことよりもはるかに深刻な問題だ。

そして、本エントリーを書くきっかけになった大事な指摘はこの部分。

僕も含めて、いわゆるインターネットのメディアでがんばっている人たちは、もちろん自分の利益のためにがんばっている。ニュース・メディアなどは当然広告収入が目的だろうし、個人ブログだってアフィリエイトやその他のマーケティング上の目的がある。どんな活動も継続的な利益を生み出さなければ続けられない。インターネットのメディアとてその例外ではない。金儲けから逃げられないし、また金儲けから逃げる必要もない。金儲けは健全な市場経済の中において社会に貢献するもっとも強力な手段だ。
しかしインターネット・メディアに関わる人たちの多くが、金儲け以上の社会的意義を確かに共有しているし、それをとても大切なものだと思っている。日本ではテレビ局の力があまりにも強大すぎるし、テレビに関わる既得権益は日本の政治と深く結びついてしまっている。テレビほど世論誘導を強力に実行しうるメディアは日本にないし、本来、メディアというのは国家権力を監視するというのがとても重要な社会的役割なのに既存のマスコミと国家権力はべったりだ。

現在ソーシャルメディアはまだまだ非力な存在であるが、その意義が非常に大きいことは疑う余地もない。ここで藤沢氏はかようなネット・メディアの未来について下記のように結論づけている。

経済活動というのはある意味で生存競争であり、最終的には抜き差しならない利害の対立になる。Amazonと多くの小規模の書店が決して相容れないように、インターネット・メディアも既存の巨大メディアと全面戦争をはじめる時がやがてくるだろう。今はあまりにも力が弱すぎて、見過ごされているけども。

そう、そんな時代は近いうちに来るのだろう。GoogleとAmazonが合併してソーシャルメディアの一大勢力を築くというプロットで話題になったモキュメンタリー・ビデオ<EPIC2014>が大流行したのは6年も前の話だが、インターネットという情報伝達という点では限りなく万能なインフラが成長を止めることは考えにくい。人類は情報化社会において、もう後には戻れないステージに到達してしまっている。

しかし、しかしである。そのような世界の流れと日本の流れが一緒になるかどうかは別問題である。例え立ち上がるとしても、このままいくとその間にはかなりの時差が生じる恐れがある。
筆者は大胆に、半ば自暴自棄に(苦笑)下記のような問題が解決しない限り、ソーシャルメディアの日本における本格到来はやってきそうで、なかなかやってこないのではないかと考えている。

ここではソーシャルメディアではアメリカ(や欧州)が先を行っているという前提で、その違いを基に筆者の論拠を述べたい。
(肝心のソーシャルメディアの定義については敢えてここではせずに、次のエントリーでまとめることとする)


日本でソーシャル・メディアが立ち上がらない10の理由

1 既存の大手メディアの影響力が強すぎる。
これには二つある。一つはその国土の狭さ故に大手メディア数社のネットワークが日本全土をことごとく網羅してしまっていること。
 日本全土は右向け右でどっぷりマスメディアに漬かってしまっている。そしてそれがどういう危険性をもっているかについても気づいていない。藤沢氏は「日本の統治機構にがっしりと寄生した既存の巨大メディア」という表現を使っているが、その力は未だ絶大だ。例えばアメリカでももちろんマス・メディアは強大だが、膨大な国土と人種の坩堝と言われる多様性、そして国内にすら存在する時差はアメリカをして情報操作をこの上なく難しくしている。アメリカの全国紙もテレビのメジャーネットワークも日本ほど影響をもっているとは到底思えない。勿論アメリカでも重要な事項については操作は日常的に行われているが、戦争をしている国としていない国では情報に対する優先度の設定が異なるのは理解頂けるだろう。(奇しくもその際に最も優先度が高いのはいわゆる「大本営」の発表というやつなのだが。日本は未だにその亡霊を駆逐できていないようだ)

次に、日本人の単一性の問題。これが国民の既存メディアに対しての依存度を極度に高めてしまっている。何より問題なのはその既存メディアにどっぷりと漬かってしまっている状況が簡単には変わらないことだ。
 毎日の通勤途中に必ず見かける電車の中吊り、毎日同じニュースを何度も何度も垂れ流すワイドショー、過激な見出しでしか顧客を釣れなくなってしまっている大手週刊誌などは潜在意識に無言で働きかける。(通勤のほとんどが車で行われるアメリカにおいては以前ラジオが同じような機能を果たしていたのだろうが、近頃ではもっぱらデジタル音楽を聴いているだろう)
この理由の一つは日本がほぼ単一民族に近い人種で構成されており、言語は日本語のみ、そして日本人としてのアイデンティティというのが簡単に伺え知れるほど、多くの人が同じことを考えているということだ。(ここでの単一民族の比喩は、例えば外国人が日本人を見たときに感じる見た目の統一感と近いと思う。黒髪に黒い瞳、似た様な背格好と服装、同じ言語というようなものである。そして「今日本では何が流行ってるの?」とかいう質問が日本人の均一性を物語る有名なフレーズである)
ソーシャルメディアは「個」が抜きん出る舞台であり、既存権力との対決の場である。故にその前に国民が懐柔されてしまっている現状に不満を持たない限り、着火しないことは十分に考えられる。(筆者は平和主義なので安保闘争を再燃させろとは言わないが…)

2 人権意識が低い
- ソーシャルメディアで取り上げられるニュースコンテンツのコアとなる視点を考えた時に、その背後にあるものは「人権」と「個性」の尊重である。日本は先進国の中では明らかに人権後進国であるが、それはつまり「個性」というものを尊重できない文化を有しているということにもつながる。ネット上では相変わらず隣国の国民に対して差別的な用語が飛び交っているが、それをそもそも差別だとも認識していない節がある。「人権と個性」を尊重できない国では「弱いものいじめ」が氾濫する。
日本には多くのグレーゾーンが存在することも問題の一部だ。未成年の喫煙や飲酒、賭博に売春、違法とされていることが平然とまかり通っている現状に国民は不満を持つのではなく、完全に慣らされてしまっている。
弱者の典型は「子供、老人、女性」であり、彼らにとってどんどん住みにくい社会になっていく。親がパチンコに興じている間に子供を車の中に放置しておいて殺してしまった場合、アメリカでは重罪が言い渡される。恐らく他に子供がいたら、その親の親権は取り上げられるだろう。子供というのは一番弱い存在であり、その子供に対するケアをなおざりにしたまま、一方では学級崩壊やモンスターペアレントを輩出するような仕組みを教育の現場で作ってしまった日本は、メディアの根本にある「人権意識」というものに根ざした報道に対して、ワイドショー的な興味本位のレベルを超えた本質的な興味をもてない。

3 政治(や歴史)とジャーナリズムへの関心度が低い
- 日本では政治への関心度があまりにも低すぎる。これは投票率をとってももちろんそうだが、特に若者の間での政治論争など聞いた試しがないくらいノンポリ化が進んでいる。これはつまり「誰を選んでも同じ」という意識を植え付けさせた体制の意向があまりに強く反映されているためである。投票率が下がれば組織票が強いところが伸びる。これは今の2ちゃんねるを見てもよく分かることだ。いい加減、いつまでも必死に妨害活動をしたり扇動作業をしているのはごく一部の人間であり、ネットへの露出度は人の数には比例していないということに気づくべきだ。アメリカ人が日本人より総じて賢いかというと断じてそういうことはないと思うが、政治や人権意識という点では日本よりも遥かに進んでいるのは地域レベルでもよく分かる。(またこれは国民が税金問題に対しても強い意識を持っているということであり、日本は源泉徴収のシステムが納税者の納税意識を希薄化しているとよく指摘される)

4 個性を認めない「出る杭を打つ」文化の存在
- 村八分、ガラパゴス。。。個性を認めないのを旨とする農民気質の日本人にはどうしても「和」を乱す存在を容認するわけにはいかないというマインドセットがある。これはソーシャルメディアの精神と真っ向から対立するものなのである。そして、藤沢氏が指摘する通り、国民が「マスメディア」を上位階層、「ネットメディア」を下位階層としている限り、その杭を打つ力があまりにも強い。これではやっている方もすぐにヤル気をなくすか、あるいは傷ついてどんどん倒れていく。「ペンは剣よりも強し」とは言うものの、お腹をすかせば簡単に死んでしまうということを大手メディアはよく分かっているし、体力的にはまだ彼らのほうが優勢だ。

5 自営・独立をする人が少ない
これは情報を発信する側について。電子出版が既存の紙出版に比べて参入障壁が低く参加しやすくなったのと同様に、その気になればそれこそ「筆一本」で参入できるソーシャルメディアの世界は実は独立のチャンスだ。しかし長らく農村社会であった島国日本ではそもそも中小企業の数がアメリカ(や韓国)に比べると圧倒的に少なく、自営業者や中小企業の経営者を支援するような仕組みやインフラが圧倒的に少ない。一方ソーシャルメディアで生計を立てようとするとそれなりのコミットメントが必要になってくるので、ここにもまた障壁が存在していることになる。よって明確なビジネスモデルが存在しない黎明期に、この業界に飛び込む人間というのは必然的に少なくなるいわゆる「様子見」の状態が続き、結果として立ち上がりがどんどん遅れていく。

6 非営利団体に対する支援と理解の欠如
- チャリティは胡散臭いなんて誰が言い出したんだろうか。アメリカでのネットの活動、ひいてはジャーナリズムの多くは非営利団体や有志によって支えられており、あのウィキペディアだってもちろん非営利団体だ。政府の助成金などのシステムもあまりに脆弱で、「志」や「大義」のために活動をしようとしても、資本主義の壁に押しつぶされて終わってしまうばかり。これではソーシャルメディアは育たない。何故かというと、メディアの大義は儲けるところ以外にあるべきだからだ。商業主義に捉われたジャーナリズムなど何も面白くないし、一方書くのも得意で金儲けも得意、みたいな人間は歴史が示すとおりかなり稀少なケースだろうから。(多くの作家や独立系の記者は極貧生活を続けながらも執筆を続けてきた)あたかもブームみたいに「社会企業家」などと言うキーワードでもって、チャリティを真面目に捉えて活動している人を興味本位のみで取り上げている場合ではない。

7 (英語力を含む)外国語力の低さと国際意識の欠如

- 日本人の英語力の低さは日本語の特異な言語的構造によるところが大きい訳だが、根本的には海外に対しての意識が低いところから来ている。(海を隔てているのだから当然だとも言えるが) 日本の中にあるニュースなんか限られているのだから、世界とつながるソーシャルメディアの世界に目を向けるべきだが、ここでいちいち翻訳サービスを必要としていたのでは肝心の「スピード」がまったくついていけない。つまりここでもソーシャル・メディアは成り立たないのだ。本来は英語教育を(一時的に)捨ててでも言語としての親和性の高い韓国語や中国語を学ぶことで、もう少し国際感覚を身につければ隣国のニュースなどに興味をもつようなケースもでてくると思うし文化交流も深まるはずだが、人権の問題とも影響して日本人は隣国のアジア人に対する持ち前の人種差別意識を乗り越えようとはしていない。

8 PV神話が根深い(大手依存)
- 日本のPV神話は恐ろしい。とあるソーシャルメディアサイトに話をしに行った際に実際にあったことだが、何を言うよりも先に「まずは月間50万PVです、そうじゃないと広告がつきませんから」と真顔で社長に言われたのには本当に閉口した。広告モデルのビジネスの話をしにいったのではなかったんだけども。PV神話が根強く続く限り、(それを望むかどうかは別として)零細でやっているソーシャルメディアのサイトやポータルに広告がつくようなことはない。
PVだけでいったら規模の大きなヤフーやMSNといったサイトに到底勝ちようがないし、彼らの多くは簡単で詐欺まがい(失礼)の「一行広告」みたいなツリ文句で未だに多くのユーザーを扇動している。もちろん特定量のアクセスがあるのは当然だが、迅速性を旨とするソーシャル・メディアの世界では運営主体は零細企業である場合がほとんどであるため、どうしても取り扱う内容は専門的なものにならざるを得ない。この点で、芸能を中心に総合的に情報を扱うポータルにははなから勝てっこないし、本来戦う相手ではない。アメリカでは大手のテレビ広告離れに代表されるように、このような形だけのPV神話は崩壊しつつある。

9 匿名性ジャーナリズムとしての先駆者としての2ちゃんねるの存在
- ある意味日本人の「集合知」とも言うべき2ちゃんねるというBBSが存在している時点で日本におけるソーシャルメディアは早い時期にある程度確立されていると言える。しかし、その匿名性故に2ちゃんねるは一部の「特殊な」人間が集まるところとして一般人からは敬遠されるようになり、最近ではまあすますその傾向が強まっているのではないか。質の悪い「荒らし」行為や宣伝、露骨な情報扇動や個人の誹謗・中傷などが跋扈するあの場に関わりたくないと思う人が増えてきた時点で、マス・メディアはうまく情報操作をしてうまくユーザーを掲示板から引き離していったのだ。ガラパゴス日本を席巻したこの掲示板のもつ意義は大きい。まずは日本では(インフラ的には)ソーシャルメディアが十分に成り立つ可能性というものを示唆したという点、そして次にネットにおける匿名性の問題を明らかにした点、次に「本格的なステージに到達する前になんとなく満足してしまった、つまりやる気をそいでしまった点」である。これぞまさに体制の思う壺(笑)である。ソーシャルメディアの成熟にはその責任の所在を明らかにする「実名制あるいは固定ニックネーム制」が不可欠だと筆者は考える。

10 芸能ネタへの偏り
- 日本は芸能ネタを中心とするいわゆる「三面記事」がニュースの花形である。ワイドショーを見ていたら誰の目にも明らかだ。これは例えばウィキペディアの記事構成にもそのまま現れていて、あれだけ規制が厳しいにも関わらず芸能関係のエントリーが全体の7割以上を占めるという噂があるくらいだ。(要検証 笑) こちらは検証できなかったが、記事ごとのアクセス数ランキングは公開されている。これを見る限りでは少なくとも英語版よりも日本語版のほうが芸能関係に偏っているということはコメントしても差し支え無いだろう。芸能ネタの多くはテレビ局やプロダクションから営利を目的として伝えられるものであり、(それが芸能人の日常を取り上げる様なパパラッチ的なものでない限り)ソーシャルメディアにはあまり適していない。一般人の関心がここに偏っている限り、ネットのアクセスというのは常にそれに大きく左右される訳で、硬派なソーシャルメディアサイトを立ち上げようにもそもそも対象となるネット利用者がかなり少ないと考えられる。例えば私は自分のブログの潜在読者なんて最大でも50万人くらいしかいないと考えている。
(*だが、こと芸能ネタに関してはどうしてもプロダクションからの情報が必須になってくるため、マスメディア向けなのだが、ライブレポートやファンクラブでの情報交換などはファンが草の根的に内容を伝えるのに最適なため、実はこの分野で大きなブレイクスルーが起こり、ソーシャルメディアが立ち上がる可能性はある)

(以下は次点)
11 携帯からネットに接続している人口の比率が高い
- アメリカではiPhoneの普及によりようやくスマートフォンでのウェブ閲覧というのが一般的になりつつあるが、日本ではiモードなどの携帯サービスを通じてでしかネットを使わないという人口がまだまだ多いようである。パケット代の問題もあるが、そもそも公式コンテンツに上がらない限りはアクセスを稼ぐことができないのに対し、キャリア側からすると自前のサイトに誘導したい(特にソフトバンク)訳だから、ここには利益の相反が生じる。(そもそもソーシャルメディアは既存のメディア業界の構造変革であり、立ち上がるまでは大手はみな逆風である)

12 宗教上のノンポリが多い
- 宗教は政治や人権とは切ってもきれないものだ。「日本人は無宗教だ」と世界から判を押したように理解されるくらい日本人は宗教的にノンポリである。これに対して欧米型のメディアは「正義」の論争はしばし宗教観を土台にしたものである。「宗教なんか科学的じゃないから現代人は信じるべきじゃない」なんていう訳のわからない理屈を並べて自身の宗教への無理解と不寛容を正当化しているのは先進国の中でも日本くらいだろう。信教の自由は自分の権利を認める代わりに、他人にもそれを認めるというものであり、異なる視点からの意見を尊重しながら交流する場というのが必然的にあちこちで生まれるようになる。

キーワードでまとめると「マスメディアの影響力と国民の依存」、「興味をもつ対象範囲の狭さと無関心」、「(個性を認めようとしない)村八分への危機感」、そして言語力である。

しかし、ここで誤解して頂きたくないのだがこれらはつまりガラパゴスと揶揄される「島国根性」といういわば日本人の一番良い部分の裏返しでもある。このため、もしかしたら日本はソーシャルメディアを立ち上げないという選択肢を無意識の内に取ってしまうのかも知れない。そう、ちょうど電子出版でも大きな可能性の芽がどんどん摘まれていってしまっているのと同じように。
これが無意識の内ではなく、日本国民の総意としてソーシャルメディアではなくマス・メディアへの継続的依存を選択するなら、それはそれで仕方ないことだと筆者は考える。

では、ソーシャルメディアとは一体何なのか、この難しい議題については次のエントリーで筆者なりの見解をまとめていきたい。

ソーシャルメディア革命 に続く)

来る8月26日に六本木ヒルズで、現在筆者が参加しているビジネスプランコンテスト&クリニックの最終審査発表会が行われる。
当日は10分のプレゼンを審査会と発表会(公的場)の2回行うことになる。果たして、意力の受賞はなるか!? お近くの方はぜひともご参加いただきたい。
ちなみに発表会での筆者のプレゼン順番は2番目である。(審査会では1番目) 当日はゲストとしてジョン・ルース駐日米国大使とSBIホールディングス代表の北尾吉孝氏が挨拶をされる予定。

MIT-EFJ公式サイト上のイベント告知

<第10回MIT-EFJビジネスプランコンテスト&クリニック(BPCC10) 概要>

日程: 2010年8月26日(木)
開場: 14:00 受付開始
開演: 14:45
会場: 六本木アカデミーヒルズ40
(六本木ヒルズ 森タワー40階、東京都港区六本木6-10-1 )
参加費: 無料 (事前登録が必要です)
申込方法: 参加登録フォーム
※MIT-EFJ正会員の方、非正会員の方(初めての方)も必ずご登録下さい
申込期限: 2010年8月25日(水)20:00
MIT-EFJ正会員登録ご希望の方: 詳細はこちら
※正会員は会場において投票ができます。
※プレゼンテーションは日本語により実施されます

<プログラム:予定>
14:45 – 15:00 開会挨拶
15:00 – 15:45 ビジネスプラン・プレゼンテ―ション(前半)
* JTS・東京農工大学 株式会社アイシンクス
「高精度手書き文字認識エンジンと応用アプリケーションの開発および商品化」
* SAKURA Internet USA, Inc.
「画期的な電子ブックストア 「Book Stream」」

* PIJIN co. Ltd./ 設立予定
「WEBサービスを多言語化+自然言語化するシステム「PIJIN」」
* 株式会社 精膳
「地域の未利用資源と最先端技術を融合させ持続的社会への挑戦」
15:45 – 16:00 質疑応答
16:00 – 16:05 休憩
16:05 – 17:00 ビジネスプラン・プレゼンテ―ション(後半)
* イデアリスタ株式会社
「新しい音楽体験を実現するMYTRACKsプラットフォーム」
* おひろめマルシェ
「手作り作家や愛好者の交流および作品の展示・販売を実現するWebサービス」
* 株式会社スカイミント
「ポチっと押すだけで、Taxiが来てくれてサッと目的地に着く「ポチタク」」
* 株式会社ウィルモア
「病気になりにくい体づくりの知恵が集まる場 「Yo-bo」」
* ワンビ株式会社
「盗難・紛失したパソコンの情報漏洩対策」
17:00 – 17:15 質疑応答
17:15 – 17:30 休憩+MIT-EFJ正会員投票
17:30 – 18:30 ゲストスピーチ

* ジョン・V・ルース駐日米国大使 ご挨拶
* 北尾吉孝氏 基調講演  (SBIホールディングス代表取締役 執行役員CEO)
* 過去ファイナリスト報告

18:30 – 19:20 最終審査結果発表、表彰式
19:20 – 19:30 閉会挨拶
19:30 閉会

今更ながら、一冊の本の(特に編集前の草稿を)ブログに落としこむというのは大変な作業だ。何が大変かというと、それは勿論読者に、ということだが。とにかく長い。実質10日ほどで書き上げた本だが、ワードで170ページをブログに落としこむと長いこと。これだけでもブログ出版の意義を理解してもらえるのではないか。クリックするだけでも一苦労だ。

さて、読者の中には律儀に順番に読んでくださっているかたもいらっしゃるようなので、お付き合い頂いていることに感謝しながら、この長い連載、「電子ブック開国論 草案」の目次を下記に掲載したいと思う。今掲載しているアマゾンの販売体験談はいわば私の原点といえるべき体験で、今読み起こしても生々しく、悲喜こもごもの感情が蘇ってくる。(日付は元のブログエントリーのもの)

序章電子出版元年に向けて
今はどういう時代なのか

第1章電子出版とは何か
電子出版~画期的なビジネスモデル(11/21/09)
紙と電子、プラットフォームの決定的な違いを理解しよう
フォーマットについて
イーブックリーダーという専用端末
垂直統合型ビジネスモデルとは何か
価格と流通
著作権問題の行方
クラウドコンピューティングについて
2010/1/5 日経産業新聞に取材記事が掲載されました!
電子出版の歴史DTPが電子出版の草分けだった
電子出版社の役割とは

第2章キンドルの衝撃とバカの壁
アマゾンとアップル二隻の黒船
1.Kindleとは何か
2.iPadとは何か
「KindleかiPadか」の議論からの脱却.
電子出版市場におけるマーケティング手法の特異性
iTunesの評価システムに潜む罠
コレクター心理はどう変化する?ブクログって知ってますか?
電子コンテンツ専用検索エンジンとディレクトリ
電子書籍専用の書籍コードの重要性
カギを握るゲームとIT業界
アメリカ発オリジナルコンテンツ販売体験記
電子出版で作成可能なコンテンツ例
SAMSUNGとSONYの新型電子リーダーとEPUBフォーマット(09/02/09)
KindleforStudents!? (08/20/09)

第3章理想の電子ブックリーダーとは

電子化の先例実は日本ではとっくに普及してた電子出版~発想の転換
イーブックリーダー比較表
こんな端末が欲しい
日本市場における電子ブックリーダーの新しい位置づけ(02/24/10)
<特別章>CES2010レポート

第4章電子出版がもたらすソーシャルメディアの夜明け
ソーシャルメディアの勃興
近未来のソーシャルニュースネットワークを考える(1)(02/22/10)
近未来のソーシャルニュースネットワークを考える(2)(02/23/10)
ブログを書こう
ネットの未来を占うオープンからクローズドへ[ネットの開国談義とNING](02/0410)
電子出版の行方を知る上での重要なポイントとアゴラブックス(03/06/10)
ダイヤモンド事件が語るもの(ソーシャルメディアの脅威)
第5章日本はどう立ち向かうべきか
日本は電子ブック戦争に敗れ「た」のか? (01/13/10)
ガラパゴスをどう捉えるか
マンガ家は日本の財産だ
ソニーはどうした!?
クールな国、日本が抱える「多すぎる」問題
中国市場をどう見るか
キンドル(Kindle)が日本のクリエイターを支援する(07/25//09)
電子出版で甦る「早すぎた」ビジネスモデルPOPJNEOの例
キンドル早わかりマンガと森祐治氏(01/03/10)
世界を狙うならこのコンテンツだ!
クリエイターが創る未来

第6章いつまでも続く開国談義出版関係者に物申す
-呉越同舟か船頭多くして、か?電子書籍協会はどこへ行く
佐藤秀峰氏の言動が出版界に及ぼした影響(ブログ1-18-10をもとに加筆修正)
電子出版は出版界を救うか?
編集者の活躍の場.
新書なんて要らない

編集作業や権利の兼ね合いで全部を掲載するかどうかはまだ分からないが要点は漏らさず掲載したいと考えている。実際に電子版および紙版で出版される「開国論」は、名物編集者Y氏によって編集されており、タイトルも少し異なる。今ようやく第2章が終わろうというところだから、まだまだ先は長い、どう考えても新ポータルでの電子版の発売のほうが早くなりそうだ (苦笑)

アメリカでKindleが注目され始めて、電子出版に関してまずは個人的に具体的なリサーチを開始して方針策定に時間を費やした。それから実際に筆者が運営するLMDPがKindle Storeでコンテンツを売り始めたは2009年の6月からだった。それからもうすぐ1年が経とうとしている(注:執筆時点)が、電子出版を取り巻く趨勢は一変したと言っていい。その間Kindle Storeでは当社のコンテンツが並び続け、少しずつではあるが売れ続けた。この章では実際に何が行われ、アマゾンとどういうやり取りが行われたのかという筆者なりの「激闘」の様子の一部をお伝えしたいと思う。

まずKindle Storeではインディーズ出版社でも(ISBNをもたない)オリジナルの電子出版コンテンツが発売できることに気づいた私は、何を売るのが短・中・長期それぞれの期間において有益かということを徹底的に試行錯誤した。その末に行き着いた結論はオリジナルコンテンツを作ることと、日本語のパブリックドメインの文学作品を販売することだった。目的はKindle Storeで販売しうるコンテンツの「質と数量」を見極めたかったからだ。古典文学作品の中では、筆者が敬愛する芥川龍之介と夏目漱石にまずは比重を置いた。そして、後に女性文学者を追加しようということで与謝野晶子作品に手をつけた。(後にアマゾンとのトラブルが発生して、一部の与謝野作品は結局アップしたのにも関わらずアマゾン側の「検閲」を通過せず未だに陽の目を浴びていない)そして、オリジナルのコンテンツについてはとっかかりで作りやすいものということで、日本語学習コンテンツを提供することを思いついた。筆者にとって気がかりだったのはアマゾンの返品のルールであり、レビューのシステムだった。

あまりにつまらない作品を世に出しても、とんでもない評価を最初につけられてしまうと元も子もなく、次に続かない。実際に一番最初に考え出したコンテンツは当社のデザイナーが突発的に作り上げた「ひらがな・カタカナ表」だったが後に酷評されてしまい、それからの売り上げは大きく伸びなかった。(しかし価格が安かったので最初の頃はそれでも当社の他の作品よりも売れていたくらいだ)学習コンテンツであれば1週間はキープするだろうと考えた。そして、やるからには自分がクオリティを保証できるものがいいということで、まずは初級者用の日本語学習コンテンツをつくろうとあいなったわけだ。

しかしここでは大きな前提条件があった。日本語のコンテンツが出版できること。ということである。ここで、筆者はアマゾンの規約を詳しく読んでみたがそこにはどこにも出版コンテンツに対して言語を規制するような記述はなかった。(後にこの方針は変更されることになる)AppleのApp Storeの例を見ても明らかだが、このような新規のB2Cのプラットフォーム上においては、ユーザーを獲得すると同時にコンテンツを潤沢に提供してくれるサードパーティ(この場合は出版社、App Storeの場合はデベロッパー)の存在が不可欠だ。筆者はアマゾンはここをもちろん理解していて、サードパーティが儲けられるような仕組みを構築することでKindle Storeを盛り上げKindleの売り上げを増やすことを考えているに違いないと踏んだ。 読みは当たるのか? 続きはコチラ

かつて大手CPUメーカー「インテル」の創業者であるゴードン・ムーア博士によって提唱された「ムーアの法則」で知られるCPUの急速成長によって支えられてきたIT業界とゲーム業界は密接な関わりがある。そして、ここに常に時代の先端を走る産業が大きく関わってくるが、それがアダルト産業である。インターネットというインフラを通じてこれら3つの業界はすでに熾烈な競争を続けてきて、昨日までの敗者が今日の勝者になるというような、まさに日進月歩の世界で揉まれてきた彼らはこの時代のビジネスを生きていくのに最も必要な要素の一つに「スピード」があることを決して疑わないだろう。つまり、裏を返すとこれらの産業の(そう遠くもない)過去と出方を伺えばこれから電子出版市場で起きてくるであろう事象も予測することができる可能性が大きいということだ。

ここで少し話はそれるが、筆者の分析についての見地を説明する上で、私が日本で初めて経験した社会人体験について少し触れさせていただく。筆者はアメリカの大学を卒業してからしばらくニューヨークでOPT (Optional Practical Training – 職業訓練) の期間を経て2000年の春に日本に帰国したのだが、郷里の大阪には筆者がそれまでに培った唯一のスキルといってもいい英語力を活かせる職場というのがあまり多くなかった。その後登録した人材バンクを経て記念すべき日本で(アルバイト以外での)最初の就職先となったのが、サードウェーブという秋葉系の自作PC用パーツショップを運営する会社だった。大阪は19歳まで筆者が生まれ育った土地であり、土地勘などの勝手はもちろんあったが社会人というのはこうも勝手が異なるものかと混乱することしきりだった。特にいわゆる帰国子女として日本に戻った際には就職活動中に、それが余計な偏見や本当ではない印象を与えているという実感があったが、もちろん私自身もアメリカの合理主義は自由な考え方に大きく影響を受けていたので、久しぶりに経験する日本の保守的な環境に自身を適応させることの難しさを感じながら生活を続けていた。

しかしこの最初の職場で本当に多くのものを得ることができたし、後に米国に帰ってくることができるようになったのもここの職場でできた人間関係によるものであるので、当時若い筆者を世話してくださった先輩や上司の皆さんには頭が上がらない。当時はまだインターネットもフレッツISDNが普及し始めていたところで、秋葉系という言葉も今ほどは認知されていなかった。しかしながら、この時代にはすでにビットバレーに代表される後の日本のIT系を支えるような人材が確実に育ちつつあったのである。この職場では購買職として貿易の仕事を学んだ後に、職場が閉鎖されて以後それぞれ新品と中古品を扱う別の店舗に移籍となり、それぞれの現場でかなりハードコアなメンバーに囲まれて研鑽の日々であった。この時に筆者の現在の知識を支える下地ができていたということはいうまでもないが、それ以外にもこの時にはすでに増殖中であった技術志向でよく言えば実力主義、悪く言えば「弱肉強食」的な論理がまかりとおる秋葉系の人たちについて学び接し方を覚えたというのが大きな収穫だった。その後転職したのは日本でも最大手にあたるPC周辺機器およびアクセサリーメーカーであるエレコムであったが、入社するまでにはすっかり周囲の目には自身がその「秋葉系」のカテゴリに属していたようだ。

話を元に戻そう。ムーアの法則は主にCPUのチップ性能についての理論であるが、コンピュータのスペックを作用する重要なチップの一つにグラフィックカード(あるいはビデオカードとも呼ばれる)のスペックがある。一般的にコンピュータ用語で「重要品」と呼ばれるのはCPU、マザーボード(基盤)、HDD(ハードディスク)といった代表的なパーツである。最近でこそ主流は省電力のCPUがもてはやされるようになってきたが、筆者が製造業に従事していた時はCPUではインテルとAMD、グラフィックカードではnVidiaとATIが熾烈なスペック向上合戦を繰り広げている時期だった。(もちろんこれは今でも続いている)

しかし消費者も徐々に事情が分かってくるようになり、新規にPC(マックでは自作が一般的ではないのでここではPCとするのが妥当だろう)を購入する際にはできるだけオーバースペックにならないように配慮するようになってきた。そうなるとメーカー側はできるだけ、スペックが過度ではないということを証明できる材料を準備するようになり、その売り込みに最適だったのがゲーム産業だった訳である。日本ではゲームというとコンソールと呼ばれる家庭用ゲーム機が主流であり、現在ではWiiやPS3、XBOX360がそれにあたるのは皆さんもご存知のとおりだ。これが欧米になるとPCゲームの比重が高くなり、特にアメリカにおいては実際に日常で起きている戦争についてのネガティブなイメージが少ないのか、それを支援するために敢えて支援的なムードを醸し出しているのか知れないが、FPS(FirstPersonShooter)という一人称視点型のシューティングゲームが盛んである。(かつてはカウンターストライクというのがその代表的な作品であったし、今ではコール・オブ・デューティやバトルフィールドなどが人気)

また部品のスペックが向上するとそこには必ず熱問題が発生するので冷却産業も大きな市場へと成長した。(筆者が後にアメリカに戻ることになった時も英語のKAMIKAZEと社名をもじってネーミングされた鎌風(カマカゼ)という独自のCPUクーラーを売り込むのがミッションだった。この時にいたサイズという会社は今では秋葉原系自作パーツメーカーの最大手の一つである)CPUにはソケットと呼ばれる独自のインターフェースがあり、ブランドによっても同ブランドのCPU世代間によってもこれが異なるため、常に研究開発を余儀なくされる。したがって製品寿命も非常に短い。アメリカで販売しようと思って下準備をしていたら、船便の貨物が到着する前に次のCPUがでて製品が陳腐化してしまったというような笑えない話が日常茶飯時の世界である。このただでさえ競争が激しい世界で、PCのスペックを恒常的にアップする必要があるためにパーツ業界から篤い支持を受けているのがこのFPSとMMORPG (Multi-Massive Online Role Playing Game)に代表されるオンラインゲームであった。 (続く)

電子ブック開国論 26 27 28 へ

とあるビジネスプランの検討会ではボロボロに酷評されたビジネスプランが、何故かMITエンタープライズフォーラムのビジネスコンテストではファイナリストにまでなってしまったというのは何とも皮肉なことだが、ビジネスプランは見せる相手によって評価が異なるのは当然の話だ。投資家向けのプランを投資をするつもりのない人に見せて意見を聞いても実質意味がない。投資というのは奇妙なもので、結局プランどうのこうのも大事だが相手は人を見ている。よく「ドライバー」という言葉が当てられるが、ベンチャービジネスを牽引していくにはとんでもない労力が必要なわけで、とどのつまりは「諦めない」人間であることが最低限の資質である。そして、あとは「必要なモノ(物質以外も含む)を何とかして手に入れる」力、つまりこのブログのタイトルでもある意力が必要なわけだ。逆にビジネスプランの数字については、見た目をきれいにまとめあげるのは簡単な話で、どれだけ実際に近いものを予測できるかが重要である。しかし、実際に近い数字を予測するのが大事なのか、目標として立てた数値に近づける努力をすることが大事なのかと聞かれれば、どちらも重要だが、後者がなければ前者の数字に何の意味もなく、最初は「最低限」と思ってたてた予測の数値をはるかに下回ることだってある。自身のビジネスを含めて、こんな例は枚挙にいとまがない。

というわけでこのビジネスコンテストは願ってもないチャンスであるから、しっかりとプランを煮詰めているところだ。

その過程で、現在意力メディア(おそらくこの名前が新しい会社の名前になりそうだ)が行っている事業を簡単な図にまとめてみた。(図をクリックで拡大)

意力メディア概観

意力メディア概観

ブロガーと一口にいっても、これからはただ書くだけのブロガー(アマチュア)と職業ブロガー(プロ)にもっときれいに別れていくだろう。後者はブログを書くことに決まった目的をもっているが、前者は書くことが第一義なので特別そこから先の目的をもたない。ソーシャルメディアというからには、継続した情報発信が必要なわけでこれを何の見返りも求めずに行うことは難しく、趣味の領域で続けることができる人間は限られている。アメリカでは職業ブロガーが数多く存在しているというニュースもあるが、日本ではまだまだ数が限られている。大手のメディア企業で働くものとは異なりそこには制約条件も多いので、(ただの自己擁護に取られるかも知れないが)市場やブロガーが成熟するまでの間は温かく見守る視線が必要とされていると感じる。

(参考リンク:プロのブロガーになりたいなら月にエントリー300本書け!

これまでは、門外漢の立場から電子出版と既存の出版業界の関わりについての意見を述べてきたのだが、勿論出版業界にも素晴らしい功績があるわけで、それらを一気に否定する必要もないし、出版業界の中にいる素晴らしい人材と彼らの経験がなければこれから電子出版市場自体が成立しなくなる危惧もあるはず。先日「誰が電子出版を殺すのか?」というエントリーを書いたらあちこちで反響があったようだが、これは何も出版業界そのものに引導を渡している訳ではないし、私にそんな権利があるとは到底思えない。中抜きでなくなるべきは構造的に不要となった「ミドルマン」であって、「中身」ではない。

というわけで、今回は少し外からみた観点での出版業界の良い点を書いてみたいと思う。

まず、第一に出版業界には「活字」や「知識・教養」といったものについての能力やこだわりが尋常ではない人たちが溢れている。今ではもちろんコンピュータでも校正作業ができるわけで、昔に比べればその需要は減ってきた(でも逆に最近はコストカットのせいか、紙出版物でも以前見なかった誤字や脱字を多くみかけるような気がする)のかも知れないが、実際に書き物をしている立場からすると彼らの意見や知識は確実に参考になる。校閲作業なんかは事実の検証などをきっちり行っていくわけで、所詮ネットでの調べ物くらいしか頼ることのできない(私のような)にわかブロガーでは到底太刀打ちできないような知識のインベントリーをもっているし、漢字や修辞にも詳しい。彼らにとっては当たり前なんだろうが、これは素晴らしいことだ。(最近では日本にいる編集チームと会って、本筋の話の合間に歴史や文学の話をするのが楽しみなくらいだ)大体メールのやりとりがスムーズなのが助かる(笑)
若者を中心に起こっていると言われている、いわゆる「活字離れ」は要は国語(あるいは元々日本語がもつ美しさの部分)に対するこだわりの部分が希薄化しているということが一つだと思うが、出版業界はそれを頑なに守っている人たちだ)国語人間の私としてはただ賞賛するばかりである。

次に、彼らはそもそも出版をビジネスと割りきっていない節がある。かと言って、よく使われるような「慈善事業」をやっている認識でもない。傍から見ると彼らは「文化事業」の旗手であり、文学はどこまでいっても商売のタネというよりは「芸術」なのだろう。この観点があるから作家は救われる。数カ月、時には数年もかかって書き上げるような作品は費用対効果を考えてできるものではない。私のレベルですら、例えば「このブログを書くのに20分以内だと黒字だが、30分以上かけると赤字になるだけだ」などの損益分岐を考えていたらとてもじゃないが(特に創作系の)執筆なんてできない。(もちろん通常の作家にあるような締切りというのはニュース性を重んじるソーシャルメディアでは重要な訳だからそういうプレッシャーはある)文壇バーとかいう言葉があるが、(作家のような)芸術家はつねにパトロンに支えてもらって成り立ってきた。これはファインアートの世界を見ても明らかな通りだ。電子出版と声高に叫んでも、このような存在がいない限り、ほとんどの作家は作品を作り続けることができない。というか、むしろ新人なんて生まれることさえなくなってしまう可能性もある。ダイヤの原石を磨き上げる仕事をしてきたのは編集者であり、時折でてくるミラクルヒットで過去の打率を一気に帳消しできる可能性を知っているし、そういう存在が輝くきっかけをつくることに生きがいを感じている方々も多いだろう。この点で出版社の編集チームはある意味ベンチャー起業でいうところのVCみたいなものといってもいいのかも知れない。(費用対効果を考えずにただ可能性を信じて投入してくれるのだから、支援を受ける方としては有り難い)また彼らはとにかく「気が長い」ように見える。膨大な数の作品に目を通して、あぁでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返してきたのだから当然なのかも知れないが、どちらかというせっかちな私は感嘆を禁じ得ない。 続きはコチラ

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