Archive for the 「 言霊 」 Category

昨日はiPadのリリースについてのエントリーを入れたおかげで、1月のCESレポート以来最大のアクセスがあった。有難いことである。
ブログをやっていていいのは、このフィードバックであり、リアルタイム性である。執筆している側の励みになることは言うまでもない。
この意力ブログの前にやっていたブログのカウンターから合計すると27万アクセスくらいになり、もうすぐ記念すべき30万アクセスを達成できそうである。

さて、すでに日本では評論家としてかなりの位置にあることがTwitterのフォロワー数にも如実に現れている池田信夫氏が自身の3月5日付けのブログエントリー「電子出版はすでに始まっている」で「株式会社アゴラブックス」の設立を報告しながら、電子出版の今後について下記のように述べているのが興味深い。

iPadは今月下旬に日本でも発売されるが、それを使って読む電子書籍が日本にはほとんどない。このまま放置すると、日本は音楽流通や映像流通のように欧米に大きく引き離され、中国にも抜かれるおそれが強い。しかし日本の業界の実態を知っている人ほど、ビジネスを始めようとしない。電子書籍は、これまで挫折に次ぐ挫折の連続だったからだ。その原因はいろいろあるが、大きくいって次の3つだろう:

1. 紙の本に匹敵する見やすい端末がない
2. 出版社がコンテンツを出さない
3. 流通ルートがない

このうち1は、iPadやKindle(秋には日本語版が出るようだ)で解決されるだろう。2は意外にそうでもなく、出版不況が深刻化する中で「座して死を待つより電子出版に活路を求めたい」という出版社は多い。角川歴彦氏のように著書を全文公開する経営者もいるし、Google Booksに4000点も提供した出版社もある。

たぶん一番むずかしいのは3で、これまでの電子出版がこけた最大の原因もこれだ。実は今でもそういうウェブサイトはあるが、ほとんど売れていない。ところがオタク系サイトは繁盛しており、並みの出版社よりもうかっている。携帯の読書サイトの大部分もオタクとマンガとエロで、これも高い収益を上げている。

これらは日本の電子出版業界において的確な分析であると思う。角川氏の著作については我々の仲間内でも大きな話題になった。出版社についてはこれからは「コンテンツを出さない」という選択肢はどんどん取りにくくなるであろう。なぜならそれは出版社にとって一番重要な「作家の囲い込み」に影響を及ぼすからである。この点で大手出版社が大同団結をしながらことを進めるというのは、そのままのパワーバランスを維持しようという姿勢の現れでもあるから、逆に弱い立場の側にある出版社は手も足も封じられてしまうということにつながる。せっかくのいわば「下克上」のタイミングだというのに。本当は今の状態というのは「やったもん勝ち」である。特に情報や書籍に相応の対価を支払う層というのは限られている訳だから余計にそうだ。

この点でアメリカのアマゾン・アップル・グーグルは、今のところうまくお互いの棲み分けを「プラットフォーム」という観点ではよく考えながら戦略を立てているように思う。それぞれ電子出版に対してのアプローチが微妙に異なるのだが、これはいわばブランド手法、つまりPR戦略の一環である。つまりそれぞれの立場をうまく分かりやすく表現しながら、それらのコンセプトに共感してくれる読者(ユーザー)や作家を取り込む手法というように分析している。何故なら多くの消費者は新しい市場をよく理解できておらず、結局は自身が信じる「会社というブランド」に従わざるを得なくなるからだ。
ともすれば、混乱しやすい新興の電子出版市場において、うまく方向性を示唆しながら消費者を自身の会社にとって有利なように導く心理戦のようなものが見事に展開されているのがよくわかる。(この点で音楽や動画といったメディアは非常に分かりやすいカテゴリであったが、電子書籍はかなり広範な定義をもちつつあることを知っておくことが重要だ)

だが、各社が狙う市場は所詮同じである。電子出版は何といっても「コンテンツ」販売のビジネスであり、簡単なカジュアルゲームのアプリを作ってアイデアをお金に変えるというのとは異なり、意外に「筆でお金を稼げる」人はまだまだ少ないという事実がある。この点で、既存の電子出版の枠組みそのものが広がり、流通するデジタルコンテンツの幅が広がらなければ、市場自体が活性化せず結局は著名な作家の争奪戦になる。(新聞などではすでにそうなりつつあるのはご存知の通り)
例えば日本語で書かれるブログの分量がものすごいことはすでに何度も報じられてきていることではあるが、ではそれらが有料コンテンツになるかというとそれは難しい。大半のユーザーはネットで得られる「情報」については10円すら払わないのに慣れてしまっている。それだけ「ネット=無料」のコンセプトを消費者が抱えたままなのであり、ネットベンチャーの旗手であるグーグルは、もちろん意図的に依然それが当然であるかのようなビジネス戦略を続けているわけだ。一方アマゾンは基本的にはビジネスの姿勢を崩さず、アップルはその中間くらいだろうか。(無料アプリをうまくビジネスにつなげているモデルを作れているのはアップルくらいだと思う)
ネットの世界は数がものを言う民主主義であるから、その点では各社がユーザーをどのように啓蒙していくかという心理戦が繰り広げられている。よくよく観察していると本当にこれは戦争と形容するのがぴったりである。(ビジネスがいつもそうだと言われるとそれまでだが)この点で、池田氏率いるアゴラブックス社が年会費制でユーザーを囲い込もうとしているのは良質な「活字」や「情報」というものに対価を支払う消費者を囲い込む戦略としては正しい、というかある意味唯一の方法であるし、やるなら早いほうがいい。筆者はこれらの流れがいずれは、電子書籍という媒体そのものではなくコミュニティの囲い込みにつながっていくと思っているし、そのいわば「サロン」的なコミュニティやサークルが徐々に社会に浸透していき従来のマスメディア以上の影響力をもつようになってくると思う。(ある意味セクト主義にちかいものになるが、それはやむを得ないだろう)そして、新聞と同じように既にどこかに有償で参加している読者は二つ目に入るのも切り替えるのも躊躇する。これは最近では定額課金制(サブスクリプション)モデルのオンラインゲームが辿ったのと同じ道である。(つまりポリシーはともあれ週刊金曜日は時代の先を行きすぎていたということなのかも)

時間と空間、そしてキャッシュ(資本)という制約条件の中で、一般消費者はこれからは肥大していく質の薄い情報ではなく、密度の濃い良質な情報を求めていくようになる。金銭感覚と時間感覚に敏感な人であるほどそういう動きを見せるだろう。そして、そのためには必要な対価を支払うようになる。が、そうなる人々の数も個々の月々の予算というものは大概限られているわけだから、そういう消費者をどう取り込むかが有料メディアの行く末となる。この点で、筆者は電子書籍のコンテンツがこれから大きく分けると「文庫本や新書、ハードカバー」などの活字系コンテンツと「雑誌や新聞、ムック本」と言った画像系のコンテンツの二つに分かれていくのではないかと思っている。アマゾンは無論前者を、アップルは後者を目指すだろう。消費者も大きく異なるから意外と食い合いは少なくなる、つまりアマゾンとアップルはお互いに熾烈な競争を繰り広げながらも、いわば市場拡大のために共闘している状態なのである。そして、このようなビッグネーム以外にも多くのメーカーや出版社、電子出版業者を抱えているアメリカでは様々な思惑が交差しながら電子出版の未来を方向付けようと努力をしている。 では日本と海外の市場は同じ進化を遂げるのか、それとも変わってくるのか。そして日本の出版市場を支えているマンガという独自のコンテンツはどこにいくのか。。。(次回に続く)

先日とあるビジネス雑誌で「リアル化するネット」という見出しを見たときに大きな違和感を感じた。インターネットというものはそもそも通信インフラだから最初からリアルタイムに決まっているのに、と。中身を読んだらなるほど、TwitterとかGoogleのLatest検索とか情報「配信」がどんどんリアルタイム化されている、つまり発信と受信の間に時間的格差がどんどん少なくなっているということだった。(それを言うならリアル化しているのは、ネットじゃなくてウェブじゃないのか?とかすぐに自己流で言葉に突っ込み始めてしまうのが悪い癖というかこだわりなんだけども)

確かにグーグルの検索結果への反映なんかも昔に比べると速くなった気がする。紙媒体がその情報発信の遅さでネットに覇権を奪われているが、いわゆるYahoo!やMSNなんかのポータルサイトですらTwitterやブログでの情報配信にはかなわない。時代はいわゆるソーシャル・メディアの時代に本格的に移行し始めているのだ。

しかし、ネットにはまだまだ課題や不安がつきまとう。20年前には誰もその存在を知らなかったこのインフラを通じて、ウェブの世界は急速に膨張している。筆者はこの膨張にはいずれ、大きなゆり戻しがくるのではないかと思っている。というわけで、2010年も始まって1ヶ月が経つのだが、今年移行のネットの趨勢を占う上で、ちょっとした予測と抱負を語ってみたいと思う。筆者が考える大きなポイントは下記の通りである… (続きを読む…)

すでにご覧になった方も多いかと思うが、なかなか面白いのでぜひご一読ください。私は自分史年表型SNS「ヒスティ」を一緒に(というかほとんど丸投げしてますが)運営しているスマイルメディア高橋誠さんのブログで知りました。

キンドル早わかりマンガ

キンドル早わかりマンガ


出版界の黒船あらわる!?“キンドル”をお試し!の巻 (引用元:リクナビネクスト テク総研)

また、先日の取材記事がネットに出ているかと検索をしていたら、以前森 祐治(シンク代表取締役/CEO)さんという方がキンドルのモデルについて日経産業新聞の「デジタル時評」というコーナーにて「ケータイ小説VS.『キンドル』」というタイトルで寄稿されていたということを知ったのだが、その中で森氏は「誰もがアマゾンを通じて簡単にキンドル向けに電子出版できうる」(引用)という未来の状況を的確に予測されていたという。この記事が日経産業新聞に掲載されたのは何と2年以上前の2007年12月のことだというから、驚きである。やはり分かる人には分かるものだと思い、森氏のことを少しリサーチしてみるとCNETのコラムがでてきたので、読ませて頂いた。なかなか只者ではないというのがすぐに分かるほど中身の濃い記事と的確な市場分析であった。経歴もさすがというか、超一流でそれも頷けるのだが、きっと日本では有名な方なのだろう。(この辺りこちらに住んでいると時差や温度差が出るのがつらいところである)

年明けということで、早速私がファンになった森 祐治さんがCNETへ寄稿した2009年の総括に関する文章へのリンクを下記に貼らせてもらうと共に感銘を受けた文章を引用させて頂く。

森祐治・情報経済への視点–パラダイム・ロストの2009年を振り返って (CNETジャパンコラム)

下記はトヨタがF1から撤退した理由の一つをイノベーションと絡めて説明したくだりである。

 日本人は「新しいモノが好き」ということで知られている。しかし、上記のトヨタのように、深いレベルでの決断を伴うイノベーションの受け入れは、意外とされていない。表面的な受容に限定されることが多いのだ。例えば、積極的にホワイトカラーレベルでITを取り入れるようになって10年強が過ぎたが、「清書マシン」や「表計算電卓」、あるいは「図表描画支援」以上の利用がどれほどなされるようになり、業務プロセスそのものの改善がいかほどになされたのか疑問だ。紙がペーパーレスにはなったものの、その利点を生かした構造そのものの見直しという点では甚だお寒い状況にあり続けているのではないか。

ご指摘のように未だにオフィスではMSの「オフィス」パッケージのソフトが幅を利かせているのがまぎれも無い現実である。MSはOSと一緒にこれらの業務用アプリと一緒に一般消費者を抱きかかえたのだ。ちなみに私は柔軟に対応できるようにとブラウザ(IE,FF,Safari,Chrome)はいくつか併用するようにしているのだが、最近はオープンオフィスも併用して使うようにしている。しかしさすがにエクセルだけは関数やショートカットの関係でなかなか他のものが使いづらく、最近買ったネットブックにもエクセルだけは導入しようかと本気で考えているほどだ。(ちなみにエクセルも2003が一番慣れていて、その先はGUIが変わってしまったため使いづらく生産性が落ちるから使わないようにしている)

そして、森氏は自身が本業とされているアニメコンテンツの業界においても継続したイノベーションが必要だという話をしてこうコメントする。

 もちろん、アニメには3Dは不要という意見もある。が、欧米の劇場向け作品のほとんどがCGとなり、立体視作品となっていく中、日本以外の市場での競争優位を築くためにも何らかの形で話題を取り込む必要があろう。例えば、手描きセル・アニメであっても、コンピューター処理を施し、自動的に擬似立体化することは技術的に可能だ。しかし、そんな対応は、ガソリンエンジン車の加速をよくするために電気モーターを添えるという発想でしかない。従来の自動車の延長線上にある漸次的イノベーションの結果であり、そもそもPHBやEVを作るために製造プロセスを発想から刷新してしまう、破壊的イノベーターには立ち向かえないかもしれない。

この漸次的イノベーションVS破壊的(本来はこれがイノベーションなのだが)イノベーションという言葉遣いが非常に巧みだと思う。確かにKAIZENが得意な日本人はイノベーションでさえノウハウで擬似的に生み出すことが可能なのかも知れない。就職の面接や「一般常識問題」にまで攻略本が存在する日本市場を思えばそれも理解できる。(みんながそれを読んで一様に準備してくることで面接官は簡単にその裏をかくこともできるのは、面接をする側であれば誰でも知っている事実だというのに)

では破壊的イノベーターであり続けるにはどうしたらいいのか。破壊的イノベーターはどのように努力を続けているのかというと、

 先のコンテンツやアニメの例を挙げたように、未来の方向性とマイルストーンを決め、その実現のためのデザインに注力していくこと。優れたプレーヤーこそ、日常に埋没することなく、常に新しいものを取り込んではいないか。そう、自らが常にイノベーターであり続けようと努力する(別に、自身が発明しなくとも、役割としてイノベーターであればいい)ことなのかもしれない。そのためには、定期的に自らの中に不連続なポイントを創り出していく努力が必要に違いない。それにはきわめて頑強な意思がなければなしえないだろう。

ということだそうだ。レギュラー(定期的)にイレギュラー(非定期)をつくりだす、いわゆるファジー(曖昧)理論やカオス理論とも相通ずるものがあるのかも知れないが、私が思うイノベーションを保つ秘訣の一つは「常に前提条件を疑う」習慣性だと思う。
切り取るのが難しいくらい完成された文章だったのでまとまった引用になってしまったが、秀逸なコラムなのでぜひともご一読いただき、みなさんの新年の目標設定あるいは方向転換につなげて頂きたい。

謹賀新年

新年明けましておめでとうございます。
おかげさまで家族揃って素敵な正月を迎えることができました。感謝です。

今年のキーワードは電子出版とチャイナパワー、モットーは「”大”偉業達成の年」でいきたいと思います。

本年もよろしくお願いいたします。

立入勝義

いよいよ今年も終わろうとしている、今日は他のスタッフも来ておらず会社でゆっくり残務整理。。。と思ったら急に出荷処理が入った。Roccaforteというゲームデスクである。
今日は1台がローカルピックアップ、ゲームルームを改装したてだというアメリカ人の弁護士がわざわざ倉庫まで机をピックアップにきた、で、それ以外に2台出荷。
今月はこのゲームデスクが大売れでオンライン販売での単月の最高記録を更新した。さっそく私が最も尊敬する経営者三人のうちの一人であるMSYの秋山社長に昨日の電話会議の際にその事実を伝えたら喜んでおられた。私もやはり日本人として日本のメーカーの商品をアメリカで売るのを支援できるのは本当にうれしい。特にこのRoccaforteという机には思い入れも強く出だしが苦戦続きだっただけにうれしい限りだ。当社のサイト販売だけでコンテナ数本分はゆうに売れているからなかなかのものだと思う。月次レベルでは恐らく日本の大手量販店の数にも匹敵するだろうとのこと。
先日は世界を代表するゲーム雑誌であるPC GAMERの編集者じきじきにホリデー特別号の推奨品にあげたいということで問い合わせがあり、掲載してもらった。彼は業界では日本文化通で有名な人物である。つまり製品の人気はどんどんアメリカで高まっているということだ。サイトへのアクセス者数もかなり増えた。コンバージョン%はなんと2%を超えている。つまり50人来たら一人は買っていくということで、これはオンラインマーケティングの世界ではかなり驚異的な数字である。当社が得意としているSEOやフェイスブック、Twitterなどでのマーケティングの相乗効果が徐々にでてきているということだと考えられる。ちなみにこの製品は当社が北米で独占的に販売している、つまりマーケティングの大本は全部弊社だということになる。返品率は脅威の0%。現在の単価は249ドルで送料が100ドル追加されるから、それなりの値段である。それでこの売れ行きと返品率は驚異的といわざるをえない。今思えばそれでも立ち上げ当初、周囲で聞き込みをした際意は酷評されることも多かった。が、売る側の我々はいけるという確信をもっていたのである。

もう一つ好調だったのが電子出版。先日日本の大手新聞社(記事が出たら名前を明かそう)から急に連絡があり、電話での取材を申し込まれた。この記者の方の取材経歴を調べてみると過去にもなかなか先進的な話題に取り組まれていたということがわかり、取材の際になかなか市場のことを理解されているな、という実感をもったのも合点がいった。ちなみにローカルメディアの取材件数は未だに問い合わせすらなく、これも先進的なものを扱っている際にどれだけ一般的には認知されないかということを物語るいい例である。私の知り合いに新聞社の記者がいて、電子出版の話を半年くらい前にしたところ、「いやぁ、私はやっぱり本は紙面で読むほうが好きだから」という訳のわからない理由で取材の話すら思い浮かばなかったようで開いた口がふさがらなかった。一般ユーザーとしては理解できるコメントでも、ジャーナリズムを職業で担う者のコメントではない。何度もいうように、電子出版は単純に紙からペーパーレスに変わった、そういうことではないのだ。例えば電子メールの登場前後、携帯電話の登場前後を考えて頂きたい。市場や生活に及ぼしたインパクトは郵便物が単純にペーパーレスになっただけだっただろうか?電話は単純に持ち運びできるだけ以上の価値を生まなかったか?次元が広がるというのはそういうことである。B2BだってB2CだってB2B2Cだって、市場の拡大は次元が広がるととんでもなく大きくなる。未だに電子出版の話をするとキンドルとNOOKあるいはSONYの対決やアマゾンVSグーグルの対決の話しか頭にない人がどれだけ多いことか。しかし、これが先駆者の行く道である。本来フロンティアスピリットがアメリカンドリームの代名詞というかそれを支えてきたものであったわけで、もちろんそこにはリスクも伴うし、周囲の無関心や誤解、抽象といったものを招くわけである。しかし、そんなことにへこたれているようではその夢を実現できない。

よく聞く話でゴールドラッシュの時に一番儲かったのはあちこちから集まった金目当ての鉱夫に対していろんな物品を売った人だという。もちろん弊社の電子出版事業部が目指しているところもそこにある。クリエーターの夢を支援するという付加価値もついている。今の狭い日本の市場で苦しんでいる日本のクリエーターたちをどんどん世界にはばたかせていきたいと考えている。そのためにまずはコンテンツクリエーターとしての実績を着実に気づいている、そういうステージだ。おかげで、私は恐らく現時点で電子出版に最も詳しい日本人の一人だと自負しているし、実際に電子ブックリーダーのODM開発のプロジェクトも抱えている。いわゆる「垂直統合型」と言われるビジネスモデルを考えた際に、誰でも上流にあがったほうが力を持てるというのは想像がつくはずだ。ハードあるいはコンテンツ流通のプラットフォームを握る力をもてば、お金を生み出すのはそう難しいことではない。現在電子出版市場を苦しめているのは、そういう先見性もなく単に競合に独占させないようにという理由だけで深い哲学もなくハードをリリースしてくるハード開発メーカーであるし、既得権益を何とか維持しようとして閉鎖的な動きを見せる出版社である。この構図にはユーザー重視の思考は一切ない。iPhoneのAppストアが盛り上がった理由やYoutubeやニコニコ動画みたいなサービスがユーザーを惹きつけてやまない理由はそこにあるし、これまで順調だった任天堂がここに来て苦戦を強いられている理由も、ハードコアのMMORPGみたいな大型オンラインゲームがどこも苦戦している理由も全部そこにある。つまり作り手と消費者の間にできた大きな溝を埋めようという努力をしないところだ。価格というのも大事だし、「時間」という概念の理解が非常に重要になってきている。カジュアルゲームの恐ろしさ、携帯ハードの恐ろしさというのはユーザーの時間をいともたやすく奪っていることのできる「簡便性」という力である。昔は大作RPGをやるとなったら、それこそクリアーするまでは1ヶ月でも2ヶ月でもそれにのめりこむくらいの準備と決意で臨んだものだが、ここまで市場がにぎわってくるとそういうムードにはなかなかなれない。そういう大作をやっていても、並行して空き時間でちょこちょこ簡単なゲームをやっていると意識も散漫になっていくものである。作る側のエゴで大作をつくっている感があるのはハリウッドの映画も同じで、すでに消費者はお金を多くかけることが必ずしもよい作品を生み出すことにつながらないということを十分に理解している。

少し話がそれたが、電子出版という市場を甘くみないで頂きたい。資源的に見ても、例えば昔話題になった100ドルPCみたいなコンセプトになぞらえると、電子ブックリーダーが世界中の発展途上国の子供たちに配給されるようになり、コンテンツが手に入れられるようになると識字率なんかも大幅に向上するようになるではないか。私は以前アフリカの大学に編入しようと、アジスアベバ大学で1学期の間聴講生をしていたことがあるが、地理を勉強しようにも肝心の地図がない。図書館にいっても一つとか二つとか地図がない状況でどうやって地理を学べるというのか。(余談だが、エチオピアの人たちはエチオピアが「アフリカ」にないという風に思っている人が多くてびっくりした。もちろん日本がどこにあるか、そんなの知ってるわけもない)文学を学ぼうにも本がないだろうし、科学を勉強しようにも論文が手に入らないし研究資料がないのだ。逆にいうと、つまりそこには切実な需要があり市場があるということだ。電子出版市場は着実に成長を遂げており、日本でもKindle for iPhoneがリリースされたり、Kindle for PCがリリースされてPCでも閲覧できるようになったということで着実にユーザーの数は増えている。アマゾンのキンドルストアのコンテンツを見ても、6月には36万だったコンテンツがもうすぐ40万というところまできている。アマゾンのニュース(Amazon、Kindle向け電子書籍販売がリアル書籍を超えたと発表 IT Media)にもあるように、電子書籍販売はもはや紙媒体のそれを超える勢いを見せてきているのだ。ちなみに当社の日本語学習コンテンツはアマゾンの日本語指導コーナーで1位と2位を独占しているが、この2冊と漢字ラーニングのコンテンツの売り上げが伸びているにも関わらず最近はいぜんほどのランキング(昔は上位10%にランクされることもしばしばあった)が上がらないのは、全体の購買層が増え購買量が増えているからに違いない。このようなマーケティングデータが取れるのも先行者の強みである。

KindleRanking_Japanese_Instruction

KindleRanking_Japanese_Instruction

売り上げはどうかというと、これもまたかなり順調な推移だ。もちろん絶対金額がまだまだ少ないという人はいるだろうが、それもあと半年もすると無意味な反論となるだろう。販売冊数でみると今月は今日の時点で先月の30%アップ、売り上げ金額でいくと40%近くアップしている。このビジネスを開始した7月と比較すると販売数で40倍弱、売り上げ金額は80倍以上という数字がでている。販売数はコンテンツが毎月増えることもあり、一度たりとも落ちたことはなく、これからも無いだろうと考えている。アマゾンが頑張って市場を拡大してくれているおかげで、こちらの市場もどんどん大きくなるのだから。コンテンツのプランは着々と進んでおり、1月中には今の倍くらいの数にしたいと思っている。母集団が多い英語圏向けや中国語圏向けのコンテンツもどんどん増やしていきたい。「小遣い稼ぎ程度」と揶揄されることもしばしばあるが、何もしてなくても毎日上がってくる売り上げを見るのは本当にうれしいものだ。それがいくら小銭だろうと、である。
だいたい、たとえそれが少ないお金でも何もしなくても稼げるお金をもっている人が世の中に何人いるか。銀行預金で考えてみよう。例えばざっくりと普通預金で年利2.4%つくと(かなり多めに)考えても月々の利子は元金の0.2%。10000ドル預けて20ドルである。月に1000ドルをこれで稼ごうと思うと実に50万ドルの預金がいるわけで、つまり寝てても1000ドル稼げる人というのはそれなりに潤沢なキャッシュをもち投資を行っている人か、黙っても売れるコンテンツあるいは資産を所有しているなどで、一般人ではない。当社のコンテンツは速ければ1ヶ月とか半月以内の売り上げで作成コストを回収できるから、そこから先は完全な利益収入である。管理にも手間がかからず、単純に売り上げだけを見ていればアマゾンがお金を振り込んでくれる。お金を極力かけずにコンテンツを作る方法も、経験値があるのでいくらでも考えて実践することができる。(何より現在のヒット作品の原案はすべて私自身が考案したものだから、そういう意味では自身がリソースの宝庫であるので、そこのコストは度外視できる)

LMDP SalesChart (Summary)

LMDP SalesChart (Summary)

また、これは単純にアマゾンだけの市場の話をしていて、これからNOOKや中国、韓国、欧州の市場にも独自に蓄えたコンテンツで進出していくつもりだし、電子ブックリーダーの開発という一番上流で舵を握れる部分の利権でいくらでも楽しいことができる。本当に来年が楽しみなビジネスモデルであり、それを期待して年を越したいと思う。今は何よりも「産みの苦しみ」であり、実際に過去4回のお産に立ち会った経験から、その苦しみが大きければ大きいほど、生まれた子供とその成長する姿を見るのが楽しみだということは実感できているつもりである。だからあと一回の「力み」も我慢できるのだ。(特に双子の出産では)死ぬような思いをしてそれを体で示してくれた妻には本当に感謝している。

Don’t judge a book by it’s cover!

昨夜は家族で車で二十分ほどのところに住む友人の家でまったりとしたクリスマスを過ごした。まだ小さすぎる(2歳半)一番下の娘を除いた上の3人の娘はそのままSleep Over いわゆる「お泊り」である。おかげで休日にも関わらず今朝はゆっくりとした朝を過ごすことが出来る。(もうすぐ買い物にでかける訳だが)

さて、本題は文字通り「本を表紙で判断してはいけない」という意味である。私が最近熱心に聴くとある講演の中でもよく語られる言葉だ。私もこの言葉を重く受け止めており、主に人を判断する際にその人の身なりや肩書き、要旨、風評などでうかつな判断をせずに、あくまでもその中身で判断するべきであるという風に人に話すことが多い。これができないと、結局自身に(世間の噂などに振り回されず)相手を評価できる眼力が養われず、短期的にその過大、あるいは過小な評価が人間関係や事業に影響をもたらすことがある。これは例えば投資を検討する際に行うデューデリジェンスなどにも共通することであり、その場合は例えば経営者の経歴やオフィスの調度品や概観、PR広告などがそれにあたる。あくまでもビジネスの実態を判断し、また経営者の「人となり」を理解しながら、正しい判断をするように努める必要がある。ここで判断するのが非常に難しいものの一つが「成長性」である。これは個人でも事業でもまったく同じことだ。が、ここではそういう内容には深入りせず、私自身が経験して思わず苦笑した最近のとあるエピソードを紹介したい。

竹内君という友人がいる。彼とは渡米時期がほぼ同じで、最初はカレッジで共通の友人を通して知り合ったのだが、それからなんというか俗に言う腐れ縁みたいなもんで、UCLAで同じ学部(厳密にいうと彼は地理学部で私は地理/環境学部だった)で学び、同時に卒業した。それからも私の事業の立ち上げの多くに関わり人的な支援をしてくれるいわば「戦友」である。先日も、表題の言葉を話しながら最近私が手がけている中国ビジネスの例を取り、いかに人間がともすれば表面的な噂や見た目で人を判断しやすいか、そしてその眼力を養わない限り継続的に失敗することがあるかという話をしていた。話はかなり長く続き、最後は会社の外の駐車場で冬風が吹きすさぶ中の議論に及んだ。

その後、彼が一冊の本を貸してくれた、タイトルは「ユダヤ人大富豪の教えII」。大ベストセラーだった「ユダヤ人大富豪の教え」(本田健著)の続編である。彼はこの本の内容をいたく気に入ったという。私も実は以前BOOK OFFで立ち読みをして買いかけていたのだが、妻に止められたのでやめたことがあった。それからも内容は忘れられず、ひそかに再び読む機会を探していたのだが、彼が1ドルで買ったということで貸してくれることになった。前作はかなり昔に読んだのだが、当時は「金持ち父さん貧乏父さん」に触発され、ナポレオンヒルの作品などいわゆるフィナンシャル系の自己啓発本を読み漁っていた時期だった。読み終えた後に「スイス人銀行家の教え」という本があったのも知っていたが、そちらはタイトルがあまりピンとこなかったので、立ち読みすらしなかった。竹内君と一緒に食事をしながら、この本の話にもなり、「スイス人銀行家」の本も読んだのか?と訊くと、彼はそちらも読んだが、この本(2)の方が面白かったという。本の出だしは、前作でアメリカで貴重な体験をした主人公が日本のありきたりな大学生活にはまっていく自身を感じていた折、前作で指南をしてくれた師匠から手紙が届き、今度は欧州に旅立つというもの。今回の話はお金とのつきあい方や金持ちのレベルなど、より具体的で実践的な話が多く非常に感銘を受けた。(この本は前作と比べるとかなり創作っぽく、筆者も前作とは異なり実在する人物はいるものの話自体はフィクションだと述べていることもお断りしておく。さしたる問題ではないが)

この本を読み終わった後、爽やかな読後感に包まれながらいつものようにあとがきを読んでいた時のこと、最後の最後に書いてあるわずか一行の文言に目が釘づけになった。そこには「本書はスイス人銀行家の教えを改題したものです」とあった。びっくりして思わず本のカバーを読み直したら、カバーについていた帯にも同じことが書いてあるではないか! 小生をご存知の方なら理解してもらえると思うが、私は普段から活字に関してかなり鋭いセンスをもっており、誤字脱字やおかしな表現、あるいはその逆の優れたコピーなどに関して無意識的にチェックを入れることが多い。その自分が今回ばかりはまるっきり気づかなかったのだ。しかも前述のように、本を貸してくれた本人とその話をしていたにも関わらず。が、おかげで結果的には何の偏見もなく、その本を読みきり内容を楽しむことができた。(恐らく私のような人間が多かったため、マーケティング的に改題をしたのではないだろうか。それはとりもなおさず「銀行家」という言葉が一般の日本人にはピンとこないことが多いという事実を反映したものだと思われる。単純な推察だが改題版の方が売れたのではないか) いわゆるセレンディピティという観点では、この内容を通じて私が得た教訓とは、人に話す内容については自身もよくよく気をつけておかなければならない、という自戒の念であった。

ユダヤ人大富豪の教えII

ユダヤ人大富豪の教えII

ZEN ENGLISH

小学5年生の時、親友の一人のお母さんがESLの講師をしていたこともあって、仲間4人でそのお母さんから英語を2年ほど教わった。その中では私が一番熱心に勉強していたように思う、外交官を志し始めたのはこのすぐ後くらいではなかったか。今でも覚えているのはいくつかの新しいフレーズを勉強していた時に、自分が使っていた鉛筆を見失った私がとっさに ” I lost my pencil!”と叫んだ時のこと。思えば私の周りの最初のトリリンガルだった先生が、満面の笑みで ”Wonderful!” と言ってくれて違う鉛筆を差し出してくれてとっても嬉しかったことを今でも鮮明に覚えている。その後「家出のドリッピー」をやってみたり、英語に関してかかれた書籍を読んでみたり、地元の国際交流センターに足繁く通ってみたりと、生きた英語(正直受験英語は苦手だった)を学ぶことにはかなりの時間を費やしたように思う。大阪府下で最初の「国際教養課」なる珍しいカリキュラムが採用された年、その一期生に名を連ねることに何のためらいもなかった。そこでは本当に英語が上手な教師とネイティブのアシスタントがおり、英語しか話してはいけない授業などもあったため、徐々に生の英語に触れる機会が増えた。もちろんこの時の経験がなければ、19歳で渡米してそのままアメリカに滞在することなどなかっただろう。

最初の英語レッスンから24年という歳月の中で、思えば私と英語の関係が切れることはなかった。そして、今でもいかにして自身の英語力を高めるかについて日々研鑽している。英語というのはそれくらい日本人にとって難しい言語だと思う。これは私の生涯の英語学習を通じての実感である。それくらいロジックやコンセプトが異なっているのだ。たとえばUCLA時代に私が夏期集中講座で韓国語の授業を受けたとき、短期間で第三言語の基礎を身につけるという私の思惑通り、10週間の授業が終わった後には簡単な読み書きはできるようになっており、発音もちゃんとネイティブに通じるようになっていた。2000ドルの授業だったが、あの自己投資は本当に有効だったと今でも思う。(グレードもAでGPA向上に貢献したことも言うまでもない)この第三言語の学習は実は高校時代のフランス語が最初だったのだが、そのときは全くものにならず、韓国語では功を奏した。ここでの自信は中国語の学習にもつながったのだが、このいわばコストパフォーマンスの違いでもっとも大きな影響を与えているのは英語学習で培った柔軟性というよりは、言語間の類似性である。逆にいうとそれくらい韓国語と中国語は日本人にとって勉強しやすい言語だ。これは英語などの西欧の言語をそれなりに勉強してからこの二つの言語を勉強するとものすごくよくわかる。そういう意味では日本人は英語を学ぶよりも、他のアジア言語を勉強したほうが効率もよく近隣諸国との交流やビジネスにもつながると思うのだが、これを声高に主張する人があまりいないように思う。逆に私が冒頭に書いたポジティブな体験と正反対の体験をし、英語について、ひいては外国人とのコミュニケーションについて抵抗感をもってしまった人がどれだけ多いことか。人や食べ物の好き嫌いでも分かるように、一度抱いた抵抗感を払拭するのは並はんかなことではない。それならいっそのことゼロ体験のほうがましだ。時がくれば学べばいいし、その頃には需要に迫られているだろうからそれなりに真剣に勉強するだろう。それを阻むものはない。

前置きが長くなったが、今や35歳で英語歴24年という経験をもつようになった私は何か英語学習者に対して貢献できることがないかと常々思ってきた。それをとりあえず二つの形で世に向けて発信することにした。一つは「絶対語感」というビデオポッドキャスト(長いので何か変わりの言葉は、番組!?)であり、これは日本語の文言に関しては日本語で、おもしろおかしい英語表現に関しては英語でトークする番組だ。もう一つは執筆活動でいわば「ZEN ENGLISH」とも呼べる著書をしたためてみようと思う。といいながら忙しさにかまけてなかなか筆を進められないので、ちょっとずつブログで書いてみることにしようと思う。これは英語の文法や語彙などを教えることにフォーカスを置かずに英語(あるいは母国語としての日本語)に対する「メンタル」を変えることで英語学習の成果を伸ばそうというものだ。私が最近傾倒している「禅」の公案の概念や、愛読している”ZEN ENGLISH”という本にインスピレーションを受けたのはいうまでもない。

たとえば、こういう話をする。誰もが下記のフレーズを英語学習の初期の段階で学んだだろう。

“This is a pen.”   (これはペンです)

これは実は英語がもつ単語の「原形」というコンセプトを示す非常にいいフレーズなのだが、実は英会話の教材としてはまったく適当ではない。 何故か?よく考えて欲しい。

このフレーズっていったいどういうシチュエーションで使うのだろう??

“Hi Ken, this is a pen!” “Hi Mike, this is a pen too!” とか?(爆)


考えたことありましたか?(次の段落は少し英文法に対しての説明になるのでアレルギーを持っている方は読み飛ばして、次の段落に進んで頂きたい。意味は通じるはず)

英語における動詞の原形は一般的にはそれが日常的あるいは慣習的に行われているか、継続する「状態」を示す。 “I go to gym.” は普段からジムに通っているというわけで、特定の時制を必要としないのはこの理由である。が、日本語の文法にはこれに該当する表現は一定ではない。たとえば「私は学生です」とはいっても(少なくともこの意において)「私は学校にいきます」とはいわない。代わりに同じ意味で「私は(今)英会話学校に通っています」と言うのは何らおかしくない。しかし、この「~しています」という表現に該当する英語表現は一般的には”(be) doing”に代表される現在進行形であり、これは例えば「(今)食べています」という表現の時には何ら違和感を感じないものの、日本語でいうところの「電話をしている」という表現を英語にすると”(be) calling”となってしまい、今度は英語の意味で「呼び出し中」という意味に近くなってしまう。(I just called to say “I love you”. という歌がある。英語では電話がつながった段階で”called”になっている。通話中は  “on the phone”という「状態」である(すなわち原形)。また未来形があまり単語に影響を与えない日本語において、「明日(は)学校に行きます」というのはごく自然な表現であるのに対し、これを英語で原形のままでやると”I go to school tomorrow.”となりめちゃくちゃになってしまう。(sounds familiar!?) (また他の機会に説明するが、このような問題は過去形にも同じ問題があてはまり、日本語の過去形が「経験」を含むのに対して、英語ではこれを「完了形」を通じて表現しなければならない。

ちなみに私がこのフレーズの(英会話としての)意味のなさに気づいたのは、実はつい最近のことである。恐らく私は生涯に、このフレーズを英会話で学ぶ例としてあげる以外は日常生活で使ったことは一度もないだろう。理由は明白で、相手はそれがペンであることをしっているからだ。(もっともペンを見たことのない子供に説明する時には使う可能性がある表現だが。。。少なくとも私はそういう状況に遭遇したことがなかった)英会話ではもちろんこのTHISをTHATとかITに変えて会話の訓練に使う、が、ポイントは日本での英語教育があまりにも実用英会話とかけ離れてきたことであり、これは枚挙にいとまがない。もちろん教科書はどんどん会話を主体とするものに変わってきていると思うし、ガラパゴスが「進化している」と主張するのに反対するつもりはない。が、それが国民全体の英語力の著しい向上という実績につながっているかというと、まったくそうではないと思う。つまりやり方が間違っているのだ。文法を説明するために日常で使いもしないフレーズを一度勉強させるというのは大いなる二度手間である。苦手意識をもたれてもしょうがない。

ZEN ENGLISHでは文法を語らないと言いつつ文法を語っているじゃないか、と言われそうだが、ここでのポイントは上記の文法上の解釈(慣れればこれもきっと楽しいものになると思うのだが)ではなく、英語学習に関する「気づき」(*禅仏教での悟りのようなもの、もちろん次元は違うかも知れないが)の世界の共有である。よく言われることだが、英語が上達する過程において日本語の方もどんどん変わってくる。それは例えば、論理性と明確性を求められる英語を学ぶことによって、日本語特有の(特に自信ですら理解していないほど曖昧な)曖昧性の存在に気づき、それがコミュニケーションの妨げになるということを理解するからであるかも知れないし、「キャッチボール」で進む英会話のルールを知らず知らずのうちに日本語に適用することなのかも知れない、もしくはいわゆる英語の表現独特のポジティブさや率直な愛情表現などではぐくんだ感情が自然と日本語に反映されるからかも知れない。この「気づき」は単なる発見ではなく、自身の考えや行動規範に大きな影響を与え、かつ実際に特定の行動に結びつけるものでなくてはならない。現実に影響を与えない悟りなど何の意味もなく、この点を英語では ”get” という非常に単純な単語で表現することがある。これは単に「分かった」ということではなく、「悟った」という意味である。

簡潔にまとめようと思ったが、言葉に関する話題になるとやはり簡単に筆を止められないようだ。いずれにせよ、興味をもたれた方は「絶対語感」と “ZEN ENGLISH”に注目し続けて頂きたい。

北京

今回初めて北京に来たのだが、北京の印象はこれまで訪れた他の中国の都市よりもかなりいい。もちろん好き嫌いは分かれるのだろうが、私はこの落ち着いた街に日本よりもはるかに長い歴史をもつ中国という国の歴史と成熟さを感じる。上海に比べると非常に地味な印象は受けるが、政治機能が集中しているここでは彼の地で感じられるような商売っぽく派手でギラギラした感じはない。それは街ゆく人々の服装にも表れている。広大な中国では行くところ行くところそれぞれでまったく違う印象を受けるが、私はここ北京で中国の一番自然な近代化の例を感じる。現地での要人とのMTGで中国の政治・経済、法整備などについて話が及ぶと、ここ北京では今まで知らなかったことを学ばさせられることが多い。世界一の人口を擁するこの国を動かしている人々の裏事情などを垣間見せられることが多く、最近躍進が目覚ましい中国が単にバブルの波に乗っているというのではなく、周到な計画と大胆な施策のもとに少しずつ前進しているさまが見て取れる。

経済的には、世界一の人口は勿論世界一の潜在的市場を意味する。自動車や携帯市場というメジャーな市場で世界一位の地位を誇る中国は、今や20年前、いや10年前ともまったく違う視線で世界中の国々から注目を集めている。かたやそれと同じ期間 『ガラパゴス』 と揶揄される高度でかつ独自の成長を遂げた日本は世界からの注目を失いつつあると思う。我々が海外に進出した時に恩恵に預かれた「MADE IN JAPAN」のブランド力はどんどん力を弱め始めていると感じるのは私だけではないはずだ。ロビーの力をみても日本の国際的競争力は本当に弱い。「中国はどこにいくのか?」はすなわち「日本はどこにいけばいいのか?」を教えてくれる教科書でもある。私自身がひょんなことから携わることになった、今回の大きなプロジェクトを通じて感じるのはまさにその点であり、これは私にとって教科書や机上の空論ではなく、まさしく現実そのものである。日本(そして日本人)の強みとは何か、日本が国際社会から求められているものとは何なのか、をもっと議論してみたらそこに何らかのコンセンサスは生まれるのではないだろうか。(ちなみに私は『ガラパゴス』化そのものは現実であるので良いも悪いもないと思っている。問題はその現実を無視しようとしたり、歪曲したり、違いを認識せずに逆に海外をガラパゴス植民地化しようとして大敗を喫したりすることである。島の中でのみ快適に生活したいというのが目標であればガラパゴスはパラダイスである、が、このいわゆる「鎖国か開国か」という議論は120年も前に決着がついたはずではなかったか)

余談であるが、最近テストを始めた「絶対語感」ビデオポッドキャスト用のネタとして、市内のあちこちにある英語のサインを見たのだが、煩わされたことはほとんどない。空港のターミナル間をつなぐニュートラム内などで流れる英語アナウンスメントも日本のそれに比べてレベルがかなり高い。これは昨年のオリンピックなどに向けて北京がかなり国際化に注力したということなのかも知れないが、外国人で溢れかえる東京の六本木でみかける英語サインのレベルのあまりの低さが頭をよぎり、この差は深刻だと感じさせられた。教育の目的をどこにおくかを施政者は真剣に協議すべきであり、それは決して短視野的なものであってはならない。政府と教育機関はいっこうに効果のあがらない英語教育にどこまでお金を費やせば気が済むのだろうか。予想通りの結果があがらない時にはその現実を直視してアクションをとる、ビジネスなら当然のことなのだが。。。私にできることは何だろう。

ケンピンスキーホテル

ケンピンスキーホテル

(*写真は今回先方の厚意により手配頂いたホテル。ルフトハンザセンター内にあり、住居棟も隣接している。北京空港からは車で40分くらい。ちなみに北京空港はすばらしい空港だ。)

かいじゅうたちのいるところ

昨日東京入りした。今回はそれほど寒くもなく、雨もふっておらず大変過ごしやすい。

全米で大人気の絵本 “Where the Wild Things Are” (Maurice Sendak著、神宮輝男訳)の映画が全米で封切られた。(日本での公開は1月の予定) 早速妻と長女が見に行ってきた。ずいぶん楽しみにしていたものだが。。。反応はさて!?

それにしてもこのタイトルの訳はなかなかいい感じだ。この際のカギはもちろん “Wild Things“ のわけで、これを「かいじゅう」として絵本風に漢字なしの表記で統一したあたりにセンスが伺える。また音の語呂も7・5となりちょうどいい。

「くうねるところにすむところ」というのは有名な落語「寿限無」の一節だが、この表記はそれに音感が近いように感じる。またこの「寿限無」はNHKの有名な教育プログラムの中でも何度も繰り返し詠唱されていたので、多くの子供たちの耳に響きが残っているだろう。

「かいじゅう」は「怪獣」だとちょっとどぎついし、「かいぶつ」だと少し使い方が限定される。かといって「きょうりゅう」では誤訳になってしまうし、何よりでてくるモンスターみたいなキャラが恐竜みたいには見えない。私ならどう訳すか、ちょっと考えてみた。

「かいじゅうたちのすむところ」 → いる と すむ ではどう語感が違うか?

「こわいこわいのいるところ」 → あかちゃんみたい?

「かいじゅうたちのらくえん」 → らくえんかどうかわからないし、のらくえんと続くのがあまりいい見た目ではない

「あらくれもののいるところ」 → あのキャラかなりほのぼのとしてるのでピンとこない。

「こわいばけものがいるところ」 → Again, ばけもの!?

「こわーいやつらのいるところ」 → ちょっと男の子向きすぎるタイトルか?

というわけで、この訳よりいいのが思い浮かばなかった。すっきりとしてていいタイトルだ。日本の興行がよければいいのだが、いずれにせよ日本のお子さんたちにもぜひとも言語の英語で読むこともおすすめしたい。

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北京へと導く案件

去年の今頃、知人からのある一本の電話が最終的には200人近い数の従業員を救うことになった。とある企業の救済が緊急で必要になったケースだった。その知人から紹介された方に、すぐに会うことになり、すぐにその方の日本の上司と連絡がつながった。翌週には東京に飛び、どういうオプションがこの状況で可能なのかと懐疑的な会計士や経営陣を前に一緒に頭をひねった。成田へ向かう飛行機の中で私の頭はいつにも増してすごい勢いで回転していた。テーブルの向かいにすわる不安そうな顔ぶれに一つ一つ私の案を順番に紹介していた時、とある企業にみんなの視線が輝いた。「これならいけるかも知れない」 その翌日私は買収先となった社長さんのもとに趣き熱心に説明した。結局忙しいスケジュールの合間を縫ってなんとか二人の社長をつなぎ、経営統合への道は開いた、それもわずか2日という異例の短さで。フィーも破格だった、かかった時間に対しては、ということであるが。が、それにも増して嬉しかったのは多くの人の生活を救うことができたという満足感だった。帰りのフライトの中で爆睡していた私の頭の中はからっぽだった。

そしてまた、今年。同じような一つの案件を、私がアメリカに来て以来ずっとお世話になっている、いわば一番の恩人であり、恩師であるF氏から紹介された。そのスケールの大きさに驚愕しながらも、私はそれを断る言葉をもっていなかった。せめてもの恩返しに、と一心不乱にこれまでその案件をおいかけてきて、急遽この日曜日から今回は北京に飛ぶことになった。内容についてはまだ多くを明かせないが、またこれで救われる多くの命があることだろう。話を聞いたら無理だとか否定的な意見をいう人も多いが、その言葉が自分にとってどれだけ意味がないかをよく理解している。今の私を突き動かすのはこの仕事の社会的意義の大きさと、この事業によって救われる多くの人々、この事業が世の中に与える途方もないインパクトである。うまくいくかどうか、それは誰にもわからないし、そんなことに興味をもっている時間すらない。「勝利できない環境は与えられない」 私はそれを信じている。自分の信条は “Where there’s a will, there’s a way”. であり、座右の銘は「義を見てせざるは勇なきなり」だ。敵前逃亡はあり得ないし、そんなこと今までしたこともない。まさに、やるしかない、の世界だ。

(余談)中国でも電子ブックリーダーがでているらしいから、それも見てみたい。自分なら今世界が一番求めている端末をつくるお手伝いができる、そういう自負をもっている。もうすぐ国際版キンドルが発売される。最近ますます好調な日本語学習カードなどの当社オリジナルコンテンツが世界100カ国で販売されるというのは強力な追い風であり、6月から試行錯誤してきた内容の正しさを証明してくれるものでもあると思う。今回の出張には間に合わないが、次回の出張には国際版をもっていって東京で試してみたいものだ。なんども言うが、電子出版のすごいところは「これまでの著作物を単純に電子化」するものではない。「これまでの紙媒体では絶対できなかったことを実現する可能性をもっている」ところなのだ

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  • nori: 買います!
  • will: どうも。NINGは言語設定を選べるので日本語にするのは...
  • Taka: お疲れ様です。 zen にaplyしたんですが全部英語でわかりません。...
  • will: Takaさん いつもお世話様です。 ぜひZEN...
  • Taka: マンツーマン英語教室開いてください。 フィリピンの方がやってるみたいなね、先生!

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