2 3月 2011
おはようございます。意力ブログの立入勝義です。
本日のiPad2発表イベントもライブ中継してみます。
会場は北カリフォルニアのYerba Buena Center for the Performing Artsです。
色々調べた結果メインはMobile Crunchでチェックしています。
せっかくブログで宣伝したのにCaliのGeekBeat.Liveの方は今のところ立ち上がっている気配がないです。
いよいよ10時になりました!
参考までに、現在私はiPhoneでスタッフの一人と会話をしながら、複数のブラウザを立ち上げてそれぞれのサイトをチェックしています。
(もちろんFirefoxでタブも開いているんですが、スクリーンショットなど取るときに複数あるほうが便利なのと、落ちたときのバックアップ用)
そして、Twitter。フェイスブックはヤメときます。
さて、始まった模様です。。。
スティーブ・ジョブズが登場した様子です!
時系列で説明してくれてるMacworldの中継もよさそうです。
でもやはり画像をどんどんアップしてくれているMobile Crunchが一番よさそうです。こういう時に各メディアの対応力が伺えますね。
Geak Beat もなんとか頑張って欲しいんですが(笑)
“When we introduced the iPad, we said it was our most advanced technology in a magical and revolutionary device. People laughed at us for calling it magical — but it’s turned out to be magical. People didn’t necessarily agree with the price — but ask our competitors now”
iPadをこの世に送り出したとき、我々はそれが最も技術的に進んだ革命的で魔法のようなデバイスだと言いました。
人々は「魔法だなんて」といって笑いました。しかし、それは本当だったのです。
価格については賛否両論があります。しかし、競合を見てご覧なさい。
Engadgetも画像がいっぱい上がってていい感じ。
The overall message: The iPad is not a computer — it’s a “post-PC” device.
They’ve got educators talking up the iPad, calling it the “future of education”. Doctors, saying it gives doctors “the point of care they need at the exact moment it makes a difference”
(Courtesy of Mobile Crunch)
“We’ve gotten off to an exceptional first year. We’d like to build on that. What about 2011? EVERYONE has a tablet Will it be the year of the copycats?”
かなり競合を意識したコメントですね。「所詮私の敵ではないわ、とでも言いたいのでしょう」
A5プロセッサー、そしてビデオカメラ搭載
しかし、会場はこれで盛り上がってるんだろうか。。。
iPhone4のテザリング機能についても言及。Verizonを追いかけて、AT&Tもやると言ってますね。
“You’d think we have to give up some of the iPad’s legendary battery life. Nope. Our team found a way — it’s got the same legendary 10 hour battery life”
バッテリーも、そして値段も犠牲になっていない。
“We’ve got some really cool accessories. The first: HDMI video out, via dock accessory cable”
(MC)
HDMIもついてるんですね。そして、ちょっとだけ(0.2lb)軽いらしい。
アメリカでの発売日は3月15日
世界では3月25日に同時発売、26カ国、日本もココ
何より、今回は白色がでます。どっちがいいですか?
色もカラフル

ケースメーカーが睨む視線を感じられそうです。俺たちを殺す気か、と。
ポリウレタンケースは39ドル、レザーは$69だそうです。
You can “FaceTime between two iPads, between an iPad and iPhone/iPod touch, and between iPad and a Mac.”
当然FacetimeもiPad2間でできるようになる、と。
ちなみに、一応NYタイムズでもライブ中継やってます。
iMovie for iPad: Precision editor, Multitrack audio recording, new themes, Airplay support, HD video sharing\
Garagebandもくる
説明するのはミュージック・マーケティングのXander氏。
画面をスワイプしてキーボードやギターなどの楽器を選択する。

キーボードを叩く強弱で音の強弱が変わるらしいが、詳細は不明。実際に試してみて、また感想をお伝えしたいところです。
しばらくGarage Bandの説明が続く。。。今回の目玉の一つなのか。
ドラムの画面。デジタル楽器というカテゴリーをプロモートしているんでしょうか。ギターヒーローのActiVisionがレイオフしたのと対照的。そういえばRockbandはリアルの楽器とチューンするんだっけ。
これで、みんなもPlaying for Changeができる!? (笑)マークにもこのことを伝えなくちゃ。
今回の中継、画像はEngadget、レポートはMobile Crunchに軍配が上がったようです。そしておかげさまで、意力も記録的なアクセスを達成。まぁそれでも大したことないですが、弱小ブログなんで(笑)
白いiPad可愛いですね。でも、ホントに大きなiPodになっちゃいましたねぇ。
ここで、本家Apple.comでもトップページが更新されてるのが確認できました。今朝はメンテ中になってたので。
で、スティーブ・ジョブズの次のようなコメントで締めくくられた様子。
Steve’s Back on stage. “A lot of folks in this tablet market are rushing in, looking at this as the next PC. hardware and software are done by different companies, talking about speeds just as they would with PCs. Every bone in our body says this is not the right approach”
タブレットを考える上で、ハードとソフトが別々の会社によって作られるというような従来通りのPCという視点で眺める考え方そのものが間違っている、そう言いたいようですね。
ケースのCMまで公開されてる。
以上 、意力ブログによるライブ中継のライブ中継でした!ご清聴ありがとうございます m(_ _)m
(感想)
ほとんどリークそのものだったので、新鮮味がなかったですが、Steve Jobsがちゃんと出てきたのと、Garage Bandとケースのデモに力が入ってるのが印象的でしたね。それだけかなぁ。。。ちなみに裏でやってた任天堂の岩田社長のGDCでの基調講演はゼルダの新作の話題だったらしいですね。
(追記)
カリ・ルイスのGeak Beat TVでもまとめが掲載された様子。ライブはどうなってたんだろう。つなげなかったのは筆者だけだったことを祈る。
Thinner Form and Faster Processor Mark New Apple iPad 2 Improvements
22 2月 2011
「いいのか?話してもいいよ、別に」それに気づいたレイジは声をかけたが、
「いや、仕事の電話だから後でやるさ。それより本題に移ろうか」と武内は言った。今日のうちに学んでおかないといけないことがあるらしく、それがそもそも呼び出された理由だった。
ウィキペディアの五大原則
「じゃー簡単にウィキペディアについて説明する。と、言っても読む方は知ってるだろうから、執筆する方についてのみだ」レイジは準備していたメモをコンピュータ上で開きながら話し始めた。
「一般の人は閲覧するだけだからほとんど知らないと思うが、ウィキペディアにはかなり厳密な運用ルールがある。そして、それらを束ねているのがウィキでいうところの憲法とも呼ぶべき五大原則だ」
「五大原則ね」武内はそういいながら手元のメモ帳でメモを取り始めた。
「そう、これは五本の柱と呼ばれており、ウィキペディアが創設されて以来ずっと変わっていない。どの言語のウィキをとっても同じことだ。説明しよう」そう言いながらレイジは手元のメモに大きな字で1から5まで書き綴った。
「まず第一の原則。それはウィキペディアは百科事典だというものだ」とレイジは言った。
「なるほど」武内の耳にはごく当然のように聞こえた。それは誰もが知っているウィキペディアの姿であった、少なくとも武内はそう思っていたに違いない。
しかし、この最初の原則からしてウィキペディアの現状と既に矛盾してきている。と心の中でレイジはつぶやいていた。数十の言語に翻訳されて、毎日数百万というページビューを誇るこのウィキペディアという史上稀に見る活気な存在は、もはや百科事典などという旧世紀以前の過去の遺物とはすでに一線を画してしまっている。ウィキペディアはウィキペディアであって、それ以上でもそれ以下でもない、というのがレイジの持論だった。
「実際にはもうこの原則はウィキには当てはまらないと僕は思ってる。だけど、ややこしいからまた後でゆっくり説明することにしよう。とにかくこの原則が最初のルールだ、そしていわゆる「特筆性」のルールとこのウィキペディアは百科事典だという鉄則にはその内何度も出くわすことになるからよく覚えておいてくれ」
「なるほど」と言ってはみたものの武内はまだ釈然としないようだった。
そんな武内を尻目に、レイジはさっさと説明を続ける。大学で一緒に学んでから、かれこれ十数年の仲であり、この人柄は素晴らしいが、何とも要領の悪い男の良い部分と悪い部分については他の誰よりも理解しているつもりだった。お互い郷里を離れて長いので、もしかすると安彦の家族よりも自分のほうが彼という男についてよく理解しているのではないかと思えるほどだった。ふと視線を落とした腕時計は午後1時を刻もうとしていた。
ウィキペディアンの憂鬱 8 9 10 へ
(*出版時期が具体的になりつつあり、本格的執筆を開始したため、一部名称などが変更になっております。追ってブログのエントリーも修正して参ります。読みにくいかと思いますが、しばらくご辛抱ください)
1 11月 2010
少しブログの間隔が空いてしまったのを、急いで埋めたところ。しばらくブログが更新できなかった理由は、ソーシャルメディア関連の新作を執筆していたから。(言い訳にはならないが)
北米からソーシャルメディア最前線の事情をお伝えする本作には、かなり力が入った。北米に在住するソーシャルメディア・ブロガーとしての筆者の立場でしか書けないような内容のものを描きたかった。今ソーシャルメディアの現場で何が起こっているのか。まだ日程などは公表できないが、近々皆さんの目に触れることになると思うので、期待頂きたい。
さて、最初の著作「電子ブック開国論」(こちらも近々陽の目を浴びることになる予定なのだが、まだ詳細をお伝えできない)のブログ連載も終わった。60回を超える長期の連載となったが、電子出版を巡る時勢は、かなりの変遷を遂げた。ソーシャルメディアも同じくである。
今回ソーシャルメディア革命(仮題)なる本を書きながら、いろいろ調べるにつけ日本でソーシャルメディアの火がつく日は近づいていると感じた。厳密に言うと、それはすでに始まっていると実感する。ただ、我々日本人がもっているいくつかの文化的背景がその加速を阻む可能性がある。そういうメッセージを伝えたいと思って、新しい連載を始めることにした。
その名も 「いいね」と言える日本 である。 副題は 無名ブロガーの知ったかぶり日本人論 とでもしようか(笑) もちろん、これは私が高校生の時に一斉を風靡した石原慎太郎氏らの著作「NO」と言える日本をもじったものであり、私の今の立場はどこからどう比較しても、彼らのレベルにはいたっておらず、私が日本人論なんか展開しても誰も読んでくれないばかりか、非難轟々(ごうごう)になるだろう(笑) しかし、例え声は小さくても、それをつぶやき続けることで起こるのが、ソーシャルメディア革命である。そして、私はこのタイトルをとても気に入っている。
最近一連のツイッターを巡る議論がアメリカを騒がせた。特にツイッターのリツイート(RT)機能が濫用されることの意義についての諸氏のコメントを見るにつけ、思うところがでてきた。つまり、今の日本にソーシャルメディアが普及していくには、イエスもノーもなく、ただ誰かのコメントをそのまま(もちろんコメントを付けることもできるが)繰り返すリツイートではなく、フェイスブックが実装して、最近は日本でもミクシィなどで利用されるようになった「いいね」(Like)ボタンのような肯定的な支持、いわゆるエンドースメントが必要なのである。一票一票は小さくても、このポジティブな後押しが、一人の意見を社会運動にまで発展させることができる。その意義を伝えているのが、まさにソーシャルメディアなのである。今や世界最大のスピーチフォーラムとなったTEDや「音楽で世界の人々の心を一つにする」という意義で始まったPlaing for Changeなどは、ソーシャルメディアの最たる例で、これらはいわゆる経済活動を念頭に置かれたものではない。なので、マーケティングに特別な予算をかけるわけでもなく、ただ後押しする人たちがどんどん力を貸すことで運動が大きくなっていく。これがまさにソーシャルメディアの醍醐味というわけだ。
なので、ここでは海外在住の日本人の視点ということで、今の日本に必要な「気づき」についての刺激をどんどん与えていけるようにこのタイトルで少しずつメッセージを送るようにした。そして、もしもどこかの版元で興味をお持ちになるところがでてくれば、ぜひともご相談頂きたい。何を一介のブロガーが、と思われるかも知れないが、2年近く続けてきたブログの影響力は私自身でも驚くほどであり、最近では何かと声をかけてくださる方も増えてきたということに、私自身がソーシャルメディアの可能性を実感している部分である。
そして、これはアーティストだろうが、作家だろうが、インフルエンサーだろうが、革命指導者だろうが、教祖だろうが、みな同じことだが、活動に意義や可能性、そして才能を見出して「最初に集まってくれるフォロワー(あるいはファン、あるいは弟子)」や経済的にサポートしてくれるパトロンの存在(すなわち購読者)というのは、本当に有り難く感じられるものであり、その嬉しさは生涯忘れることのできないものだ。彼らなくしては、リーダーもアーティストもインフルエンサーも存在しないのである。
「要は売り込んでるだけだよねー」と思われた方、当たらずしも遠からずである(爆)
31 10月 2010
何故電子出版の専門家がでてこないのか
日本はありとあらゆる専門家で溢れかえっており、多くはテレビや雑誌などのマスメディアに出ることで有名になっている。しかし、これまでのところ「電子出版」の専門家というか権威という人物はそうそうでてきていない。これはどうしたことか。新しいジャンルにおいて専門的知識と経験を基に「第一人者」や「先駆者」と呼ばれることは非常に名誉なことであり、メディアの脚光を浴びる絶好のチャンスである。にも関わらずまだまだこういう専門家が少ないのにはわけがある。それは簡単にいうとこの市場がまだまだ未知の世界であり、今後どう発展するか検討もつかないという人があまりにも多いこと、そしてもう一つはこの分野がデジタルとアナログというハイブリッドな知識と経験を要すること
である。(むしろデジタルが少し強いのは「電子」の部分からも見て取れる通りである)
これまでに数冊の電子出版に関する書籍がでているが、Kindle登場以前と以後では全く状況が違っているわけでいわゆる「電子ブック2.0」的な内容を語ろうとした場合にはこれらの多くが大した意味をなさなくなっている。そういう点では2009年以降に出版された書籍を書いた著者、そして日本で大々的に電子出版事業を手がけている方たちがいわゆる第一人者としての地位に一番近いかも知れない。しかし、実際には彼らの多くは実業を経験していないか、あるいはしていたとしても、肝心のKindleやiPadといったいわゆる垂直統合型モデルで構築されたプラットフォームでコンテンツを販売している者は少ない。筆者は2009年春頃から100以上のコンテンツ(申請したものはもっと多いがアマゾンに拒否されたものも数多い。理由は後ほど説明する)を販売してきているささやかな実績がある。
数量はもちろん既存の出版に比べると大したことはない。しかし、そこから得られた知識と経験というのはリアルなそれである。この本を書くきっかけの一つは、アメリカという遠い地から日本を眺めながら、実際の経験にあまりにも乏しい人たちがしたり顔で電子出版の今後について話すときに感じたどうしようもない違和感だった。例えばiPhoneの時もそうだったが、Kindleの時でも実際に購入して日常的に使用しているわけでもなければ、手に取ったこともない、ましてや自身でコンテンツを出版したことなどさらさらない、といった人物がネット上や雑誌などの媒体でコメントをするのが日本中に広まっていく。これ自体はこれまでにもよくあったことで、問題はないとされるかも知れないが、こういう世論が国土が狭く文化的にも人種的にも限りなく単一な日本という国を独裁するのに手馴れているマスメディアによって標榜され、実際のビジネスチャンスを損失し、ひいては国益を損失することにつながっていくという点を、筆者はこれ以上看過できないと思ったのである。
これが顕著に現れている例として、これだけ電子出版や電子ブック、イーブックという名前が騒がれるようになったのに、いまだに日本語対応の専用端末(電子ブックリーダー)が存在しないという事実がある。(*本稿はガラパゴスが出てくる前に書かれています) 筆者はキャリアの半分を製造業に、そして残りの半分をITとコンサルティングの世界に身をおいたものとして、この事実の背景とそれがもたらす中期・長期的な観点での機会損失を痛いほど理解できるのである。あまりに痛かったから、書かざるを得なくなった。というのが本音の部分だ。これまでのブログや雑誌への寄稿、ネット上でのコラムの執筆などとは異なり、本書は筆者にとっては書籍という形での処女作である。もともと出版業界の人間でもないし、特別な訓練を受けたわけでもない。しかし、一人の日本を愛する者として、そして国語をこよなく愛するものとしてできるだけの誠意を込めてかいたつもりである。
21世紀に求める「知の復興」
「紙」から「電子」に変わっても、やはり出版市場である限りは今後できあがる電子出版市場においても「コンテンツが王様」であり続けるはずだという論議を何度も繰り返させてもらった。しかし、どの王様を担ぐかを決めるのは実は市場であるという点で、ここでいうところの「王様」はいわゆる絶対王政の王様ではなくて、いわば「民主主義で担がれる王様」であるというのが筆者の一つの意見である。20世紀は戦争の時代だったが、その後に続く21世紀はその戦争の破壊から新たな価値観が生み出される「革新と再創造」の時代ではないかと思う。ヨーロッパで、中世にルネッサンスと呼ばれる文芸復興の運動が盛り上がった背景に、間違いなく活版印刷を通じて刷られた書籍が活躍したのと同様に、電子出版というのはこの新しい時代の大きな革新の波を支援する一つのツールと成り得る。
この意義を理解しながら、これまで起こったデジタル化の波に続くものであるという理解は正しい理解であるかも知れないが、電子出版には電子出版の意義があり、デジタルコンテンツだからといって、毎回同じ方程式を適用すれば成功するというような考えに傾倒しないようにも注意する必要があるのかも知れない。(それほどまでに書籍というのは精神を支えてきたし、革命を支えてきたものであるというのは世界のベストセラーの一位と二位が世界宗教の経典で第三位にランクインしているのが「毛主席語録」であることからも伺い知れる。「ペンは剣よりも強し」という言葉は取りも直さず本や「言葉」がもつ大衆への影響力の強さを示す言葉でもある)
特に本書で用いたような「次元が変わる」という形容がぴったりの革新的な変化については、従来の発想ではまったくついていけない事態に陥る。これはビジネスをするものとしては致命的な落とし穴がそこに仕掛けられているのを知らずにその上をためらいもなく歩くようなものだ。筆者は本書を執筆する際に、単なるジャーナリズムとしての観点というよりも実業を手がけるビジネスマンとしての観点を常に忘れないように筆を走らせたつもりである。これは何よりも私自身が「気づいているつもり」の落とし穴に陥らないようにするためである。サブプライムから始まり、リーマンショックで拡大したこの未曾有の世界恐慌の中、多くのビジネスが指針と自信を失い、これまで安心しきっていた大企業の従業員は大きな不安を抱えているが、同じように一人一人の経営者もそのような暗中模索の不安を抱えている。
筆者自身も5人の扶養家族と少数の従業員を抱える身であるし、この不況をどう乗り切るかということについて真剣な試行錯誤を繰り返し、また多くの経営者との討議を重ねてきた。私の見通しが甘いせいで、周囲に多大な迷惑をかけたことも多く、この場を借りて周囲の方々に篤くお礼を申し上げたい。特に私のワガママを受け入れて、支え続けてくれた妻には誰よりも感謝しているし、訳も分からずガムシャラにサポートし続けてくれたスタッフにも同様だ。本当にありがとう。またこの機会に改めてアメリカに滞在できるきっかけを与えてくれた両親と、それに近い存在の二人、リチャード藤田氏さんと小出次人さんにも改めてお礼を言いたい。またいつも適切な助言と支援をしてくれる吉田宣也さんと経営者仲間の秋山昌也さん、大学時代からの腐れ縁で、電子出版についてもリサーチなどをヘルプしてくれたり、ブログを書き続けることを応援してくれた竹内康浩(ヤス)君の三人にはこの過去一年間心の支えになって頂いたことに、心からお礼を言わせて頂きたい。 続きはコチラ
25 10月 2010
武内は日本では理系出身なのだが、アメリカに留学した時には訳あってまったく違う専攻になった。地理学部までは柳田と同じだったが、マイナーといわれる専門が違った。環境政策学を学んだ柳田に対して、どちらかというと人間嫌いの武内は生物地理を選択した。まだ二人が二十代だった当時、武内が何度も永住権を取ったらパークレンジャーになるんだと言っていたことを柳田は昨日のように覚えている。この武内にはまだまだウィキの世界の裏側が見えていないようだ。もちろんここまでの話は正論ばかりであるから、何も反駁する必要がないとは思うが。実際にウィキを取り巻く環境というのは本当に奥が深い。
「そこまで聞いてる限りでは何も問題ないように聞こえるんだけどなぁ。」
と一見して善人にしか見えない武内が答えた。最近はまっているゴルフのせいで肌は真っ黒に日焼けしているが、彼を見て悪人だと思う人間はまずいないだろうと思えた。その癖、柳田が知っている十何年という間、浮いた噂の一つも聞いたことがなかった。もっとも柳田もそういうところには特別気も使わないのだが。
「それはあくまでもルールが正当に守られた場合だ。しかもこのルールというのがどちらかというと、スポーツのルールって感じでもない。何て説明したらいいんだろう。」
柳田はうぅむと少し考え込んだ。考え込む際に顎の下に少し手を置いて首を前方に傾げる癖があるのは彼のトレードマークとも言えた。
「いい例が思いつかないんだけども、例えばウィキを格闘技としたら相手と自分で同じルールで戦っているはずのように思っていたら、相手のほうが自分をやっつけるのに向いているルールをいくつも余分に知ってた、みたいな感じ。やられたほうはやられてから気づく、みたいな」
説明している柳田本人もしっくりはいっていない様子だったが、話された武内のほうもまったく同じような印象を受けた。何となくは分かるのだが、よく意味が分からない。
「違うなぁ。実際には法定論争というのが一番ぴったりくるんだよな。そう、ウィキは法定論争なんだ。項目の執筆者は被告、例えばそれを擁護しようとする俺たちは被告側の弁護人、勿論自分が被告の場合もある。そしてウィキの編集者は原告側の検事であり裁判官だ」
今回は少し柳田も当を得たり、という顔だった。
実際にこの例はずっと柳田も思い描いていたことだった。ウィキの編纂というのはあたかも弁護士のような作業だ。正当性をうまく主張しなければすぐに削除されたり、編集の根拠を問われたりする。日本にいた19年間は国語少年で鳴らした柳田であり、中学校までは弁護士になりたいと考えていたくらいだったので、このウィキのロジックについていくのはそれほど苦ではなかった。だが、一般のどれだけの人々がこのロジックを理解し、またついていけるかどうかというのは甚だ疑問だった。オープンなようでオープンではない、それがウィキペディアだと感じていた。少なくとも日本版は。もっともそうでなければあちこち荒らされてしまって体をなさなくなるということもよく分かっている。
武内はポケットに入れていた携帯が鳴っているのに気づいた。そっと調べると電話の主は今話している当人である柳田の妻、恵子であった。もちろん柳田とは竹馬の友である武内であるから、妻ともそれなりに面識やつきあいがあった。武内は黙って電話を留守番電話に転送した。
19 10月 2010
結果の最上位に表示されるものの大抵は、そういったSEO効果の賜物であり、グーグル検索のアルゴリズム上で最大の評価をその瞬間に受けているもの、というだけに過ぎない。もちろんこれに対してグーグルを初めとしたウェブ企業はさまざまな手法を凝らし始めてきてもいる。いわゆる「リアルタイム・ウェブ」というのもその流れで、その最たるものが世間を賑わしているツイッターだ。ここにも実は「情報の収斂」の最たる要素と言える二つのキーワードが成功を支えていると筆者は分析している。
それは先程伝えたセカンドライフの大失敗と正反対の性質を備えたものである。
情報の収斂現象についてツイッターを支えている二つの大きな成功要素、それは
1. ソーシャルタギング(あるいはピアーやフラグを用いた手法)
2. 文字数の制限
である。これが先程述べた情報の収斂に関わってくる重要な要素である。ソーシャルタギングというのはつまり人脈から「コンテクスト」を検索対象に付加価値として付与することである。ツイッターではフォローという言葉でそれが説明されており、自分が「有益」だと思う情報を提供してくれる人物、あるいは興味のある内容を語ってくれる人物をフォロー(英語でいうところのFollowerという意味には「信者」という意味があるのは偶然ではなかろう)する。例えば電子書籍に関しての最新情報を追いかけるならば、ブログやIT系のサイトなどで最新の情報を発信している人物を見つけ、ツイッター上でその名前で検索(もっとも最近はあちらこちらにツイッターIDが貼ってあるので検索するまでもないかも知れないが)すれば見つけることができる。後はフォローしているだけで随時必要で有益な情報が入ってくるという次第。ブログは自分から探しに行く手間が結構あり、RSSフィードなどのツールでもっぱら同じようなことができていたのだが、ツイッターのほうが基準が統一されており分かりやすい。ただし、誰をフォローするのか、という点については自身で分析をしていく必要がある。これがソーシャルメディアの醍醐味である。多くの場合はフォロワー数を指標とするのだろうが、逆にあまりにフォロワー数が多い人物のコメントは誰もが知っているので、あまり「裏ネタ」としては使えないことが多い。
また将来性のありそうな人物などに早い時期から注目していき、その成長を見守るというのは昔からあるアイドル発掘と同じような楽しみがあるだろう。またフォローしすぎることで情報の消化不良を起こしてしまったり、ツイッター漬けになってしまうことも注しなければならない。情報を集めていたつもりが、何の情報を集めていたのか分からなくなってしまったということになりかねないくらい、この便利なサービスを介して世界中で有象無象の情報が飛び交っている。(その場合トピックごとに応じたリストを作るのが便利だ)
もう一つのポイントは文字数の制限にあると述べた。これは実は非常に日本人に向いた発想であると思っている。何故なら日本人は豊かな自然に囲まれた環境の中でそれらを「歌」で表現してきた民族である。万葉集、古今和歌集、そしてそれらから秀逸なものを厳選してできた百人一首、後には奥の細道に代表されるような俳句集もあり、江戸時代には世相を反映する川柳が流行り、これはサラリーマン川柳などという粋な現代文化に姿を変えて今もそのスタイルを維持している。フォークやJ-POP、演歌などがカラオケで日本国中の老若男女に愛されているのもそうだし、それが世界に広がったことを考えると世界にも同じような「言葉」好きな人たちが多いのだろう。「言霊」という言葉があるがそれくらい、言葉やカタカナの「コトバ」には人間の魂と呼べるようなものが詰まっている。
そして、その言葉を最も美的に「収斂」する方法というのが文字数やスタイルを制限することである。先程セカンドライフがあまりに自由度が高いために失敗したという話をしたが、これとは真逆のアプローチで成功した例にツイッターがあると思う。一般的にルールというものは厳格であればあるほど競技者が切磋琢磨して技術を向上することによって得られる結果の中に勝敗を超えた「美」が滲みでてくるようになる。五・七・五という限られた文字数の中で最適でもっとも美しい「美」を求める俳句の世界にみられるように、人は制限されればされるほど、その中で推敲を重ねていく努力を続けるものである。これが観るものや触れるものを魅了するのは文芸のみならずスポーツや格闘技の世界でも同じことだ。だが多くの場合、これらの「美」は要である制約条件と言うルールが外されると途端にその良さを失うくらいに繊細なものであるという諸刃の剣的な側面をもっている。この点でBit.lyなどのURL短縮サービスはツイッターの140文字に収まりきらないURLを短縮するという切り口でうまく宣伝できたいい例だと思う。最もこの文字数の制限はいきすぎると、前述したような「釣り広告」的な文言になってしまうので注意が必要だ。
18 10月 2010
少し話がそれるが、インターネット広告市場が大きくなっているといっても、大手依存の傾向は強くソーシャルメディアの足かせとなっているのは俗に言うPV神話(PV:ページビューが多いところに広告が周チュするということで過当競争を産み、結果大手サイトに広告が集中するために何とかPVを増やそうとしてあの手この手でアクセスを増やそうとする、という悪循環を生む)と揶揄される現象により、ほとんどは大手に集中している。さらにそれさえも低下してきていることはネットの広告市場が伸びていると言われる割には売上規模が伸び悩んでいる大手インターネット広告代理店の業績にも現れている。
もっともウェブの世界では今後「収斂」がトレンドになっていくと分析している。膨大に増えてしまったサイバースペース上の情報は、一部の人々には便利を通り越して「不便」になりつつあるからだ。人間は自由よりも選択肢を与えられたほうが行動しやすいもので、筆者はよく「多選択は無選択」とう言葉でオンラインマーケティングの世界を形容することがある。よく無限にカスタマイズや選択ができたり、自由に行動できたりすることがあたかも優れた機能であるかのように見せるPR手法を用いて宣伝しているインターネット関連のサービスがあるが、実はこれらは逆にユーザーを困らせることが多い。あまりに何でもできてしまうと逆にユーザーは困惑し、何をしようかと思い巡らせるうちに結局何もできず時間だけが無駄に費やされて、そのうちそのサイバースペースから遠のいていくのだ。
一時日本ではやった「セカンドライフ」がその典型的な例である。人間の行動にはある程度選択肢が限られているほうが、先に進みやすいということを示すのに分かりやすい例を挙げるとすれば、アメリカのショッピングモールのデザインがそれだ。アメリカのモールはお客さんが周り易いようにレイアウトされているため、実際に中に入ったはいいがどこを見ていいかよく分からないというモールはほとんどない。一般的な屋内型のモールは中央に大きな吹き抜けの通路が設けられており、買い物客は階を上がったり下がったりしながら、右回りか左回りかで各店舗の前を通過しながら目当ての店舗を探して中に入るわけである。これが屋外型のモールになると中央には大きな駐車場が据えられていることが多い。
構造的には電子出版やソーシャルメディアなどとも深く関わってくる話なので、この「情報の収斂現象」に関して少し補足しておくが、1998年に当時スタンフォード大学の学生であったセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジがサン・マイクロシステムズの創業者の一人であるドイツ人エンジニアのアンディ・ベクトルシャイムから、10万ドルの出資を受けてグーグルという世界で最初の本格的なネット検索エンジンをスタートさせてからはや20年。今やグーグルの膨大なクラウドサーバーに検索される情報量は天文学的という以外に形容することのないほどのデータ量になってしまっている。筆者が住んでいるロサンゼルスと同じ西海岸上にあるシリコンバレーはこのインターネットテクノロジーの普及を受けて繁栄を遂げたが、その影には無数の栄枯盛衰の物語がある。
ドットコムバブルという言葉があるほどにウェブの世界は一時は華やかなVCからの資金調達とIPOというエグジット戦略などに象徴されるように、もてはやされてきたものの、その実あまりに便利になりすぎてしまった「ネット」上では情報の価値はタダ同然となってしまい、ロングテールと呼ばれる多くのユーザーは情報に対価を支払うという概念すらもたずネットで検索できる情報はすべて無料で提供されるべきであるとでも思っているかのようだ。しかし、ネットと世界中の有志の「集合知」を代表するWikipediaのような画期的なサービスはともかく、通常ネットに散見している情報というのはほとんどが何らかの営利団体が関わって提供されており、もちろんそこには何らかの形での収益が発生する必要があるわけだ。ここに多くのウェブビジネスを苦しめる大きなジレンマがあるのだが、ユーザーがこれまで通り情報というものに対価を支払わないという選択肢を一般的なものとして捉える限りは大きな収益源というのは広告しかない。このネット広告という存在がまた大きな市場を生んでいるので、それがさらに様々なビジネスモデルや業者を惹きつけてしまうわけである。
SEO(Search EngineOptimization:検索エンジンの最適化)サービスなどがその最たる例だが、業者がパワフルになればなるほど、グーグルはそれを適性排除しようと検索アルゴリズムを変更してくる、という感じに悪循環が続く。まるで筆者が大学の環境学の授業の一つで学んだ「スーパーバグ」理論さながらである。(スーパーバグ理論というのは、農場などで撒布される害虫対策の農薬が一部の害虫に耐性を付与してしまい、その後その生き残った害虫を駆除するためにもっと強い農薬を開発する、そしてまたそれに対しても生き残る害虫がより強力な耐性を身につけてしまう、という感じで悪循環が続くことをいう)この結果、ユーザーは今や検索エンジンで「自分が最も探している回答」にそうそう辿り着けなくなってしまった。(続く)
11 10月 2010
日本語の電子書籍が本格的に普及し始めた時に、日本のみならず日本書籍が入手できる世界中で起こりそうなことが一つある。新書の販売数の低下である。先ほど私が新書ならば内容によっては1時間以内で一冊読み終えてしまうという話をしたが、これはその後の読後感もその程度ということが多い。具体的な名前を挙げる必要はないと思うが、日本で大ベストセラーだというから興味本位で読んでみたはいいものの、下手をするとタイトルと内容がほとんど一致していないということに気づいたりすることもある。
よく文字数の限られた大手ポータルサイトや大手SNSのニュース欄なんかで、大げさな見出しで注目を集めてクリックを誘う手合いが多いが、あれとまったく同じではないか。日本は空前の新書ブームらしく、筆者も日本滞在中に書店を訪れるたびに目にする夥しい数の新書棚の前で物色をすることが少なくない。しかし、中には文字数も少なく中身がないものも多く、こんな本に700 円を払うなんて!とがっかりを通り越して怒りそうになることもある。
タイトルを見ても、二匹目のドジョウとばかりに似たようなタイトルが並ぶのも考えものだ。(もちろんこんな私が言うまでもなく関係者の方々も現状にお気づきだとは思うが)先日購入した筒井康隆氏の「アホの壁」(このタイトル自体がもちろん著者も書いている通りに養老教授のベストセラー「バカの壁」にあやかる形で上梓されており、ちなみに筒井氏がこの話題に前書きで触れた理由はもともとの執筆依頼が「人間の品格」だったからだそうで、ちなみにこの「人間の品格」という作品も別の作家によって出版されているから笑うに笑えない現状だ)にもあったが、私の愛読書である「祖国とは国語」の著者である藤原正彦教授のベストセラー「国家の品格」にあやかった「~の品格」というタイトルの著作がすごい数世に送り出されたらしい(20以上はリストアップされていたと思うので思わず吹き出しそうになった)が、「国家」より売れたのは「女性の品格」ただ一冊だけだったとか。
その少し前は「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」に影響された「なぜ~のか?」シリーズもあったし、人気TVアニメを題材にした「磯野家の謎」がヒットした直後には「~の謎」シリーズがそれこそ雨後のタケノコのように出ていたのを覚えている。(もちろん全部中身次第なので、それをそのまま否定するつもりはないことを理っておく)実際にはタイトルにつられて購入したはいいが、読んだ後にあまりの中身の薄さに激怒するような読者も多くいるかも知れず、アメリカの返品文化に慣れつつある筆者などはこれ自体は本来なら「品質保証」外の返品に該当するような例ではないかと感じてしまう。
アマゾンのKindleではないが、もしも電子出版に返品というシステムが採用されたら、例えその期間がアマゾンが採用しているような一週間は長いとして例え三日でも、場合によったら一日でも返品ラッシュが起きるような製品がでるのかも知れない。その点でフリーミアム戦略や「立ち読み」機能などが充実してくるかも知れない。いずれにせよタイトルや広告戦略の影響でもしも本来の需要よりも売り上げが「水増し」されてきたような事実があるとしたら新書に限らず電子出版で壊滅的なダメージを受ける可能性もあるかも知れないし、百歩譲って返品ルールが(幸いにも)設けられなくても紙版に比べて電子版が易いという状況になれば電子版を選択する消費者が拡大することは十分に考えられる。
10 10月 2010
電子出版を取り囲むこのような状況を思案し続ける中で、何度かでくわした結論がある。それは電子出版の主役であるコンテンツを作るのは作者だけではなく、編集者という強力な支援者がいなければ成り立たないのではないかということだ。(実際にこの本も山田順氏という数々の本をプロデュースしてきたベテラン編集者の協力のもとに成り立っている)これは本にしてもマンガにしても同じことだ。世に送り出されてきた名作や大作といわれる作品の中で著者だけで完成した作品というのは実はそう多くはないと思う。
編集者はこれまで出版社に雇われた立場で、売り上げを気にする上からの意向と自分のポリシーを貫きたい作家とのはざまで板ばさみにあいながらも、数々の名作を世に送り出してきた影の立役者の集合体である。出版社が不況にあえいでいるのは他の経営上の問題があるからであって、それがすなわちその会社で働いている従業員の価値を一切否定するものではないということは声を大にして伝えておきたい。もちろんこれからの時代は市場のニーズも読者自体も大きく異なってくるわけだから、市場にあったコンテンツづくりをするためには数々の苦しい自己否定を通過しなければならないかも知れない。しかし、これまでの苦労と実績が本当に自分の身になっていれば、きっとそんな苦労は乗り越えることができるはずだ。これから世界という市場に向かってますます大きなチャンスを手にするクリエイターと同様に、編集者の方々にも可能性を捨てずに大きなビジョンをもって、先に進むことを提言したい。これからは独立した編集者、あるいは実力のある編集者のチームが従来の業界ではメジャーになれなかったクリエイターをどんどん世に送り出していく時代となって欲しいと私は心の底から願っている。そうでなければ「開国」の意味はない、とまで言えるだろう。
9 10月 2010
出版界は前代未聞の不況の前にタジタジになっているようだ。四大メディアと呼ばれるテレビ、新聞、雑誌、ラジオの中で躍進目覚ましいインターネット広告よりも金額が大きいのはもはやテレビだけとなった。つまり紙媒体はすべてインターネットにやられてしまったということだ。しかし、注意して数字を観察するとインターネットが相対的には順位を上げているといいながらも、その実広告業界全体の売上高は確実に減少しているのがわかる。特にこの先ソーシャルメディアが勃興してくるようになると、肝心の広告モデルもどのように変化してくるか分からない。なにしろ、ロングテールと呼ばれる一般のネット利用者の大半はオンラインショッピングはするものの、情報に対価を支払うというコンセプトがない。アメリカで課金制のオンライン発行だけに特化した新聞社が倒産したのでもわかるとおり、ユーザーの多くはそもそもネットには情報は無料で落ちているものだと思っているし、一つのサイトや媒体で課金されそうになったら、さっさと諦めてよそへ行くだけのことだ。またデジタル音楽業界で起こったような、いわゆる「中抜き」モデルが広告業界にどんどん増えてくるとしたら、広告代理店の役割もこれから変わってくるだろう。
衛星放送やNHKなどの国営放送局を除いてテレビやラジオは原則無料の視聴で成り立っているから広告モデルは不可欠である。新聞と雑誌は広告と購読料の両方で成り立っているモデルであり、今後電子出版市場の盛り上がりと共に電子雑誌や新電子新聞という形で同じようなモデルが成立して成功を収める例もでてくるだろう。この一方書籍やマンガは原則としてこれまでのようにコンテンツの中には広告を含まないモデルが主流になると思われるが、すでにアマゾンのブログ広告サービスなどが登場しているように、コンテンツの中にもハイパーリンクや画像などを用いて広告を貼るようなモデルが登場しないとは限らない。
マンガや一般書籍のように著作者(あるいはそのスタジオ)が単独で権利をもつものに関してはこれまでのように代価を得る形での直接小売販売モデルが成り立つと思うが、雑誌などのように記者の他に編集者やカメラマンなどを抱えて固定費がかかっている場合は、直接小売販売モデルだけでは固定費を賄えない可能性がでてくる。もちろんこの中には固定費以外にも例えば(書籍に対する)広告費や取材活動費のような販売経費もかかってくる。電子出版といえど、結局はコンテンツの質が重要である点においては、従来の出版と何ら変わりはないことはこれまでにも説いてきた通りである。だから単発の書籍に比べて、(発行頻度はともかく)年間を通じて発行される雑誌については、この固定費の部分がカバーされる見通しがある程度立たないと創刊すらままならなくなってしまう。年間購読というモデルも存在しうるが、当面はよほど大手で知名度のある出版社でない限り読者も怖くて年間購読を申込んだりできないに違いない。