Archive for the 「 縞馬たちへの伝言(版元募集中) 」 Category

金沢星稜大学での講演

最近コンゴ(DRC)のプロジェクトで知り合った北陸のNPO団体を介して、金沢星稜大学の「ボランティア概論」(池田教授)という授業で講演をすることになった。

石川県といえば、高校生の頃同級生と一緒に能登半島を歩いて回ったあと、訪れていなかった。しかもあの時も金沢には結局入れずじまいだったように思う。

講演前には金沢が誇る日本三大庭園の一つ「兼六園」を散策。その名に違わぬ素晴らしい庭園だった。中では茶屋があり、お茶を飲みながら景色を満喫できる。若い頃は京都が好きでよく自転車で大阪から行ったりしたが、京都でもこんなにきれいな庭園は見た記憶がない。
兼六園にて

芭蕉の句碑
入口付近で芭蕉の句碑を発見した。

「あかあかと 日は難面(つれなく)も秋の風」

実は筆者の雅号でもある「秋風」が含まれた句だけに、やたら気になった。
で意味をしばらく考えていたのだが、芭蕉は陽の照りつける秋にこの地を訪れ、風の涼しさに癒されたということか。
たしかに北陸の地は夏は暑く、冬は寒いらしい。(夏も涼しいイメージがあったのだが)
で、この句には続きがあるらしくそれが

「この道や行く人なしに秋の暮」

だそうな。どうやら芭蕉の人生の旅も終盤に差し掛かっていたのだろうか。共に季節として、そして人生としての晩秋を感じさせる句である。

金沢星稜大学の隣には星稜高校があり、ここは私と同い年でMLBで活躍している松井秀喜選手やサッカーの本田圭佑選手の出身校だ。
教室には18~20歳くらいの学生が集まり、私も大学生向けの公式な講演は初めてなのでいい刺激になった。
講演のタイトルは「ソーシャルメディア時代のチャリティとボランティア ~被災地とアフリカ編~」にした。

教室の風景

講演風景

当意力ブログでも「縞馬たちへの伝言」というティーン向けの連載をしているように、日本の未来を支える若者を元気づけるようなメッセージをこれからも配信していきたいと思っている。講演後に握手を求めてくれた若者の姿や、学生のほとんどが事前に配布された紙面一杯に感想を書き綴ってくれたことには強い刺激をうけた。(来月は豊橋創造大学での講演が予定されており、こちらでは海外での起業をテーマにした講演をする予定)

(この連載はティーンエージャー向けに書かれています)

久しぶりの「伝言」だが、縞馬君たちは元気でいてくれたのだろうか。日本は特に猛暑だと聞くから、外で遊んだり部活をしたりなんかする時には熱中症にはくれぐれも気をつけて欲しい。僕もつい先週日本から戻ったところだが、本当に暑くてびっくりした。LAに戻るなり環境の違いで風邪をひいてしまったくらいだ。

さて、今日のメッセージは「宝くじ」についてだ。これは言葉を換えると「博打(ばくち)」あるいは「ギャンブル」と言ってもいい。
これにのめり込んではいけない。そのためには、のめり込むことのリスクを十分に知っておく必要がある。実は僕の父親は一生これの虜(とりこ)になってしまって、母親や僕たち兄弟、それ以外の人間にも火の粉が飛んでくるような状況になった。だからこれを言う資格があると思っている。

これには二つのポイントがあって、まずは「やるなら自分のリスクでやる」ということ、つまり間違ってもそれに負けた時に他人に迷惑がいくようなことがあってはならない。他人のお金を奪ってまでそれをするのはとてつもなく無責任なことだ。人間関係の信頼というのはお金では買えないくらい大切なものだからだ。

そして、より大事なのは「博打に依存」する体質をもたないようにすることだ。博打を打つ人は基本的には負けている。誰が何と言おうと、博打というのは運営元、いわゆる「場」が勝つようにできているからだ。「トータルでは勝っている」と主張する人も中にはいるが、それとてかなり怪しい。どの道、使った時間を全てお金に換算すると、それでも勝ってるなんていう人はごく少数だろうし、その人は多分それが博打でなくてもうまくいっている人なのだろう。それくらい徹底できてるのだから。

だから宝くじを買ってはいけない。自分を甘えさせてはいけない。

「買わなければ当たらない」というのが負ける人の主張だ。そう、その通り。だけど、宝くじくらい刺激的で実りのあることというのは他にも沢山あるんだ。宝くじを買う人はそれを買うだけでチャンスを得ようとしている。つまり楽をしようとしているということだ。人生、楽ばかりしようとしているとロクなことはない。苦労というのは成功するのにどうしても必要なことだ。もし君たちが大きくなってビジネスをすることになったとしても、ビジネス自体をギャンブルとはしないことだ、そんなのはうまくいかないし、負けても仕方がないと最初から諦めているというのと同じだ。「ギャンブル的要素」がつきまとうのはどうしようもないことだが、博打と同じくらいの勝率しかないようなビジネスだったら、もう少し苦労してでも他を当たったほうがいい。博打を打つ習慣をもつと、知らないうちに楽をする癖を身につけてしまい、結果的にはそれは自分のためにはならないし誰も喜ばない。

もう一つ大事なことは、「自分を不安に追い込むな」ということだ。当たるかどうかドキドキするだろう?それは自分が不安だということの証でもある。そしてそういう時は大抵いい結果をもたらさない。宝くじを買うことの問題点は「当たること」を夢見ているのではなくて、本当のところは「博打に挑戦している自分」に酔いしれているだけだということだ。そして、それは現実逃避であり、自分を破壊しようとしているだけに過ぎない。本当の幸せは安定からくるものだ。そうでなくとも不安定なことだらけの人生なんだから、自分で自分を不安定なところに追い込む必要はない。多くの失敗を重ねてきた僕自身に言い聞かせていることでもある。本当の意味での「人生の博打」を打つチャンスというのは誰にでも訪れるし、それをつかむのは宝くじを買うよりはるかに難しいことかも知れない。だから若い頃から変なクセはつけないほうがいい。

最後に言うと、

もしもその機会が君の人生を一転させるとしたら、それが自分の努力じゃなくて、「たまたま当たった宝くじ」で君は満足できるだろうか?そして、宝くじに当たって幸せになるよりも不幸になる人の方が多い、っていう噂は僕自身の体験を照らし合わせても納得できることだ、ということを付け加えておこう。

伝言 12 13 14へ

(この連載はティーンエージャー向けに書かれています)

少し間が空いてしまったけど、このブログのことを忘れないでいてくれてありがとう。
日本ではワールドカップですごく盛り上がったことと思う。世界を舞台に日本人が戦う場というのは、本当はどこにでもあるんだけどオリンピックやワールドカップといったスポーツのイベントに関しては見るほうも分かりやすいし、勝ち負けがはっきりするから応援するほうも一丸となる。中継は遅い時間帯だったのにテレビでは瞬間最大視聴率が70%近くまでいったということだから、それだけでも熱気が伝わってくるようだ。もちろん僕もアメリカから日本を応援していた。結果的に負けはしたものの何が起こるか分からない「最高の瞬間」を楽しめたと思う。僕は心から日本代表チームに感謝している。

ところで、よく「出る杭は打たれる」という表現を聞くと思う。これは日本が農耕民族として「」を尊ぶ精神を持ち続けてきたことの反面からくるあまり好ましくない風潮だと僕は思っている。ここでいう「杭」というのはすなわち「個性」のことだ。他人と違う人間に対して周りがそれを指摘して、仲間はずれにする。「村八分」(むらはちぶ)という言葉を聞いたことがあるかな?これは村で行われるイベントの八割で無視するということだ。残りの二割というのは放置すると周りの人間に迷惑がかかる場合だそうだ、例えば死体を放置しておくと周りに迷惑がでるから葬式だけは構ってあげるとか、火事は消さないと周りの民家が焼けるとか。

でも歴史を作るようなスーパーヒーローや英雄はみんな超個性的だ。もちろん彼らはちょっとやそっとのことで負けたりしないんだろうけども、日本にはもっと個性や「違い」を尊重する文化が育ってもいいと思っている。例えばアメリカという国は本当に個性を尊重する文化をもっている。これは人権という意識に基づいたものだ。
ワールドカップで活躍する選手は皆、普通の人とは違った個性をもっている。もしかしたら他のことに興味がないかも知れないし、学校の勉強なんてできないかも知れない。だけど彼らは自分が何を好きで、何が得意かを知っていて、そのスキルをもって日本を代表して戦うことができる。

一度きりの人生では誰もがみんな主人公だ。例外はない。悔いがないように一生懸命生きることだ。「事実は小説より奇なり」という言葉があるんだけども、その通りだと思う。君たちが本で読んだりテレビで見たりするような話よりも、もっとドラマチックな展開が自分の人生に起こると思って欲しい。そして、できれば周りでそんな夢に向かって頑張ってる人たちのことを馬鹿にしたりしないでサポートしてあげて欲しい、それがどんな分野であってもだ。自分が頑張ってる時に声援をもらうのは本当に心強いものだ。僕もこのブログを書きながら「いつも読んでますよ」とか「友達にも薦めています」とか言われるとむしょうに嬉しくてどんどん書く気が湧くし、心ない発言に落ち込んでしばらく書けなくなることだってある。他人と自分の間に線を引かないことを覚えて欲しい。

Seize the Day (ラテン語でCarpe diem カルペ・ディエム)という言葉がある。これは「いまを生きる」という意味で、同じタイトルの映画(原題はDead Poet Society)ででてくるセリフなんだけども、僕はこの言葉も映画も大好きだ。ぜひみんなも自分の人生のドラマを精一杯楽しんで欲しい。

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(この連載はティーンエージャーを対象に書かれているため、他のエントリーとは文章表現が異なります)

とある読者から文章があまりにも平易すぎるというコメントを頂いた。ちなみにTeen Ager(ティーンエージャー)という言葉は英語圏では13歳~19歳までを言う。これに対して日本ではティーンというより10代という事が多い。13歳からをティーンと呼ぶ理由は13歳からThirteenという風に”teen”という文字がつくからで、12歳まではこうじゃない。日本では10代というと10~12歳も入るので、できるだけ易しいコトバを使っていたつもりだったけども、やりすぎはよくないので今後は少し注意していきたいと思う。こういう風にコメントというのは聞く側に直接影響(えいきょう)を与える手段なので何か言いたいことがあったら、君たちにもどんどん発言して欲しい。歴史はいつも若者の力で動いてきた。

さて、今日は親友をもつ喜びについて話したいと思う。君たちの中には友達が多い人も少ない人もいるだろう。でも、僕はただの友達じゃなくて親友が何人いるかによって人生が大きく変ると思う。例えば僕は今年36歳になるけれども、一番古くからつきあっていて今も親交がある友人とは10歳の頃からのつきあいだ。だからもう25年もお互いを知っている仲ということになる。これ以外にも中学、高校、大学時代からそれぞれつきあっている仲のいい友達がいて、僕の人生にとってかけがえのない存在になっている。

長くつきあえる親友を持つことは本当にいいことだ。気兼ねなんかする必要はまったくないし、お互いの人生で浮き沈みがあってもそれに影響されることなく常にお互いを支え合い、励まし合って生きていける。だからうわべじゃなくて、深いつきあいのできる友達をたくさんもつことだ。今は周りに友達がたくさんいても、時間が経ったり、学校が変わったりするとどんどん減っていくのだから、数じゃなくて質が大事だ、と僕はいいたい。たとえば十年ぶりに連絡がついたとしても、またすぐに昔みたいに仲良くつきあえる。そういうのが本当の友達だ。

本当の友達っていうのは自分にとってかけがえのない記憶を残してくれる友達でもある。例を挙げよう。
僕が中学校の頃だ。小学校の時からつきあっていた親友がいた、仮にT君としよう。ある日彼が運動場で少し粗暴な僕のクラスメイトと喧嘩しそうになっていた。僕は急いで走っていって、そいつの顔面をいきなりぶん殴った。でも一発殴って、相手の顔をみたら急にかわいそうになってきて、そこから何もできなくなってしまった。でももちろんいきなり殴られた方は怒ってるから、その後返り討ちをくらってボコボコにされた。下に押し倒されて今度はこちらの顔を蹴らている時に、もう一人の僕の親友(K君としよう)が、僕のことをかばいに助けにきてくれた。K君はとてもおとなしいやつなんだけど、その時僕は彼のことをとても頼もしく思った。僕はこの時のことを一生忘れないと思うし、もちろんK君とも深くつながっていると自分は思っている。20年以上前の話だ。そんな風に、親友っていうのは、君たちの人生の中でとても輝く瞬間を与えてくれる存在だ。だから、大事にしてやって欲しい。

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オマケ
孔子という中国の古代の思想家は友達についてこんな風に述べている。参考までに載せてみる。続きを読みたい方は コチラ

(この連載はティーンエージャーを対象に書かれているため、他のエントリーとは文章表現が異なります)

いよいよこの連載も10回を迎えた。これも、読み続けてくれている君たちのおかげだから、とても感謝している。ありがとう。

さて、記念すべき10回目の今回は男の子たちに向けたメッセージを書きたいと思う。そうオス縞馬君たちへのメッセージだ。

僕には4人の娘がいて、みんなとてもかわいい。もちろん美しくて世界最高の奥さんもいる(笑)から家の中には5人も女性がいる。男は僕一人だけだ。それで毎週末子供たちと公園に行って遊ぶんだけども、やはり女の子と男の子は遊び方が違う。僕は一つ年下の弟(とても背が高くて190cmくらいある)との二人兄弟で育ったから、女の子と遊ぶよりはやっぱり男の子と遊ぶほうが楽しいと思う。だから、いつか男の子が我が家に加わるのを楽しみにしている。

そういう僕にとって、君たちは弟みたいなもんだ。そして、伝えたいメッセージというのは「文武両道を目指せ」ということだ。男なら強くあってほしい。だから、勉強するのと同時に身体も鍛えるべきだ。格闘技でもいいし、スポーツでもいい、なんでもいい。特に若い頃に鍛えるべきだ。
そうすることの良さは後で痛いほどよくわかる。僕は中学・高校とずっとクラブに所属していたので、夏休みは毎日部活だった。そのおかげか、いまだに太りにくくて、体重も高校生の時と変わらない。太るといろんな病気にかかりやすくなるから、太らないだけでも感謝だ。

文武両道というのは、頭と身体を鍛えることだけれども、そうすると同時にも鍛えられる。腕力がついたからって、それを弱い者いじめに使うようでは最悪だ。「力」というものは弱いものを守るためにあるのであって、やっつけるために使うんじゃない。どうせだったら強いやつに向かっていってコテンパンにやられるくらいがいい。僕は昔からそう思っていたから、中学生の頃から大好きな三国志を読んでも、やっぱり文武両道の武将にあこがれた。趙雲とか関羽とか、張遼なんかが大好きだ。彼らを使っていた君主たちも本当に彼らを頼りにしていたに違いないのが大人になった今ではよくわかる。(でも実は一番好きなのは周瑜と龐統だったりする、なぜかって?彼らがとっても人間くさいからだ)

いずれ家族ができたり、守るものができた時にやっぱり力がないと悔しい思いをすることが多い。
だから、オス縞馬よ、文武両道を目指せ!

伝言9 10 11 へ

(この連載はティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)

「少年よ、大志を抱け」という言葉があるね。これから大きくなって、どういう仕事をしようか、どう生きようかと考えることはどんどん増えてくると思う。
これについて、僕も他のみんなと同じように自分なりに悩み、考え、努力してきた。だから、今日はその体験(たいけん)からちょっとしたヒントを教えたいと思う。これは僕が35年間という長いような短い年月を生きてきた結果の感想だからよく聞いて欲しい。

それは、「自分の好きなことをやれ」ということだ。そう言うと、周りの大人や友達は決まって違うことを言うかもしれない。例えば「そんなのは成功してから言う事だ」とか「世の中そんなにうまくいったら苦労しない」とかだ。でも僕はもう一度繰り返して言おう、「好きなことをやれ」と。実はポイントは「好きなことをやるかどうか」じゃなくて、「自分が本当に好きなことは何か」を見極めることだ。そして、そのための一番の近道は自分が「好き」だと思っていることをやることだ。そしたらその次が見えてくる。

昔の人が残していった格言や名言っていうのは、僕たちに本当にいろんなことを教えてくれる。ことわざだってそうだ。例えば「隣の芝生は青い」っていう言葉があるよね。これは本当に的を射た(得たじゃないから気を付けるように)コトバだと思う。だって隣の人に聞いたらどうせ違うこと言うんだから、たとえばそれは「いや、君の家のバラがきれいなことのほうがうらやましい」っていうことかもしれない。だから、自分で何でも体験してみることが大事だ。芸能人や有名人はカッコいいと思うかも知れないけども、彼らには彼らの事情(じじょう)があり、いざ体験してみるとそれなりの苦労がある。だから、自分が憧れる職業があるなら、それに近づくために努力すべきだ。遠回りする必要なんかない。近づいていくうちにたいてい、思っていたのと違うことがあって、向きを少し変える必要がでてくることがある。でも、大きな方向を外さなかったらそれはムダにはならない。一歩山に近づいたら違う景色が見えてきたってだけのことだ。

仕事について言うと、「好き」で「得意」で「もうかる」ことをするのが一番幸せなことだと言われている。でもこれがすべてあてはまることを見つけるのは本当に難しい。僕は昔から国語が好きで書くことが好きだったけど、結局それを仕事にしようと思い切るのに35年かかった。それが得意だし好きなことだっていうのは小学生の頃から知ってたのに、だ。でもそれを見つけられて、じっさいにそういう仕事をできていることは本当にラッキーなことだと思っている。だから言おう、「自分の好きなことを見つけて、それを全力でやってみろ」と。じゃないと後悔するだけだ。

伝言8 9 10 へ

(この連載はティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)

今日も訪問してくれてありがとう。今の時点ではまだまだこの「伝言」を読んでくれている人は少ないけれども、どこかできっとこれを読んでくれる若者が増えてくれるということを僕は信じて書き続けている。もちろんそれは僕が死んでから起こることなのかも知れない。でもそれでもいい。今世の中に知られている多くの人、作家やアーティスト、てつがく家なんかはみんな死んでから評価されている。いつ評価されるかなんてのは、本質的な問題ではない。要は内容がどうかだ。だから僕はその内容に集中(しゅうちゅう)する。僕にできるのは、いいメッセージを伝えること、それだけだから。

今日は僕の思い出のなかでも、かなり大きな、そして恥ずかしい話をしてみようと思う。でも、僕はこのレッスンから多くのことを学んだし、それは今でもとても大事なことだから。それは人間に対する好き嫌いについてだ。

君たちは学校でいじめたり、いじめられたり、無視したりされたり、そういうことをしょっちゅう経験していると思う。自分自身がそうでなくても、周りでそういうのをよくみるだろう?こういうのはなかなか無くならないものだ。僕も小さい時にそういうのをいっぱい見てきたし、ある意味大人の世界でもそういうのはよくあることだ。高校生になったばかりの僕は、とあることからクラスの友達全員から無視(むし)されてしまうくらい嫌われてしまったことがある。当時はなっとくできなかったけれど、今思えば悪いのは僕だった。それまでの地元のふんいきと高校があまりにも違いすぎたというのも原因だった。さすがに、これは応えた。学校に行くのも面白くなくなりかけていた。

ある日僕は大事なことに気づいた。「嫌われるのは他人の自由だから仕方ない。だけど、僕は同じ思いを他人にさせないように、誰のことも嫌いにならないようにしよう。例え相手がどういう態度(たいど)を取っても関係ない。僕は僕だ」 この日から相手の態度に関係なく「人を嫌わない」というのが僕の信条(しんじょう、ルールや誓いみたいなもの)になった。具体的に思い描いたのは誰とでも次に会うときに、心の中にモヤモヤがあるじょうたいにならないこと。ということだった。最初は難しかったけど、そのうち慣れてしまった。

そんな時、僕に優しく接してくれた一人のクラスメイトがいた。彼は噂(うわさ)じゃなくて、じっさいに接してみて、僕がどういう人間かを判断(はんだん)しようとしてくれた。そして、僕はそんな彼の態度がとてもうれしくて、しっかり対応してつきあいをするようになった。そしたら彼が彼の友達に僕のことをしょうかいしてくれた。そういう風につながっていって、2学期が終わるころくらいにはクラスの全員と仲直りができていた。もちろんそれからも、僕の他人に対する態度は変わっていないし、今ではそれが当たり前だと思うようになったし、周りにはいろんな面白い友達ができるようになった。そして、僕は前よりもっと人間が大好きになったし、きっとこれからもそれは変わらないだろう。

伝言7 8  へ

(この連載はティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)

人生を生きるということはとっても難しいことだ。算数みたいに簡単な答えがあるようでないのが人生だからだ。だけど、僕はいろいろ考えごとをして、行き詰まった時には、より本質的(ほんしつてき)なことに立ち返るようにしている。本質的っていうのは、例えばある特定の人にだけ当てはまることじゃなくて、誰にでも当てはまることっていうことかな。例をあげると、どれだけその人が偉くても、ご飯を食べたり水を飲んだりしなければその人は死んでしまう、食べていても年をとるとみんな死んでしまう。これには例外がない。若い君たちはまだまだ死ぬってことを考えたことない人が多いかも知れないけど、僕は小さい頃から死ぬのがとっても怖かったんだ。それを考え始めるといつもとても寂しくて怖い思いをしてしまう。これは後にちょっとした考え方の変化によって何とか克服することができたけれども、今でもそれは続いている。一つの克服(こくふく、のりこえること)方法としては、「今を生きる」というのがある。僕が若い頃流行った映画にそういう題名の映画があったけども、今考えても仕方ない先のことじゃなくて、今目の前にある現実をどう生きるか、それに集中することが大事だ。今が変われば未来が変わる。未来を変えて今を変える、という方法もあるんだけど、これはまた別の機会に話そう。

つまり悔いの無い人生を生きる、ってことだ。後悔(こうかい)っていうコトバがあるけど、これが多い人生なんて何も面白くないとは思わないか?人生は一回きりしかない、誰もその一回きりをいっしょうけんめい生きている。「親孝行したい時に親はなし」というコトバがある。僕の母親は女手一つでとても苦労して僕と弟を育ててくれたから、僕はとても感謝しているし尊敬(そんけい、うやまうこと)している。ある日そんな母が死ぬ夢をみた。その夢を僕は今でもはっきりと覚えていて、黄色いジャケットを着て僕に手を振ってくれてた母の笑顔が忘れられない。その時僕は夢の中でとても後悔したんだ、「もっと親孝行しておけばよかった」って。だからその夢から覚めた時に、すごく単純に「じゃあ母親が死ぬ前に親孝行しよう」と思えた。親といっしょにいて恥ずかしいなんてのは、思春期(ししゅんき)にみんなが経験(けいけん)することだけど、そんなのバカらしいと思った。だって、人間なんてホントにいつどこで死ぬかわからないんだから。「悔いを残さない」そっちのほうがより本質的なわけだ。

伝言6
 7  へ

(この連載はティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)

今日も訪問ありがとう。
実はこの連載をスタートする時に、「縞馬」を「シマウマ」とするかどうかについてしばらく考えた。でも、君たちに敬意を表して漢字を使うことにした。そうじゃなくても世の中にはカタカナが溢れてるし、だいたい縞という字くらいこれで覚えてもいいじゃないか。君たちはいつまでも子供じゃないんだから、漢字もしっかり学ばないといけない。このブログをきっかけに君たちの漢字のボキャブラリーが一つや二つ増えたら、それはそれで僕は嬉しい。何で糸編に高いと書いて縞(しま)と読むのか、そんなことに思いを馳(は)せてみるのもいいんじゃないだろうか。それは決してくだらないことなんかじゃない。

立派な人間はいつも向上心をもっている。向上心というのは常に上に上にあがろうとする心のことだ。そのための一つのカギはとにかく本を読むことだ。「乱読」っていうことばがある。とにかくなんでも手当たり次第に読むことだ。若い時はそれくらいのパワーがあってもいい。そして、難しすぎる本があれば横に置いておけばいい、また大きくなったら読めるようになる日がくるかも知れないから。こういうのを冗談めかして「積読」(つんどく)って言う人もいる。僕にも何度か、こういう挑戦があった。中学校の時に買った「放浪記」(ほうろうき)という本は当時の僕には本当に難しかったので、結局しばらく読んでそのままにしてしまったし。高校生の時に読んだニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」という本にいたっては、何とか最後まで読んだけど、ほとんど頭に入らなかった。「ニーチェってのは難しいことを言う人なんだなぁ」というくらいの実感しかなかった。今、このニーチェという人の本を分かりやすく説明した本が日本で売れているらしいから、チャンスがあったら手にとってみてもいいんじゃないか。本のタイトルをググってみれば、どういう本かはすぐに分かる。ググるってのはインターネットでグーグルという検索(調べること)サイトから調べものをすることだ。世界中の人がこのサイトを利用している。インターネットの力はそれくらいすごいものなんだ。

伝言5 6  へ

(このシリーズはティーンエージャーを対象に書かれているため、文章が平易になっていたり会話文が使われていたりするなど他のエントリーとは表現が異なります)

訪問ありがとう。今日はどんな気分でこのブログを開いてくれたんだろうか。このブログというのは面白いシステムで、毎日何人、どういう国や場所から人が来てくれたか分かるようになっている。だから、書いている僕はこのブログを読んでくれる人の数が増えるととてもうれしいし、また書きたくなってしまう。また、たまに行ったこともないような遠い国からアクセスしてくれている人もいて、そういうのを見るのも楽しみだ。

今日は「当たり前」っていうコトバについて話そうと思う。これから君たちが大きくなって、大人としてみとめられて社会に出るようになると、だんだんこの「当たり前」っていう考えをいろんなところで持つようになる。大人はこれをたとえば、「常識(じょうしき)」というコトバに置き換えたりする。でも、この当たり前っていうのは人によってちがうから、そこに気をつけてほしい。そして、他人の「当たり前」を簡単(かんたん)に自分の「当たり前」にしないようにしてほしい。

社会はこの「当たり前」というコトバをうまく使って君たちを枠(わく)にはめこもうとする。つまり、みんな同じ扱いにしようということだ。大学に行くのが当然のことだ、大きな会社で働いてお金をかせいで安定した生活をするのがいいことだ、とかね。「就活(しゅうかつ)」ってコトバを聞いたことがあるだろう。大学を卒業してから仕事を探すのが本当なのに、苦労して大学に入ったと思ったらみんな勉強そっちのけで、仕事を探すのが当然だ、みたいな空気になっている。これも全部「当たり前」のワナだ。そして実は社会で本当に成功している人はたいてい、こういう「当たり前」は最初からムシしてる。
もちろん守らないといけない「当たり前」もある、例えば「人を傷つけてはいけない」とか「人に迷惑をかけてはいけない」とか。僕の母親は僕に小さい時から「世のため、人のために生きるのが当たり前のことだ」という風に教えてくれた。だから、その「当たり前」はいまだに僕のルールだ。でも逆に社会にはこういう本当に大事な「当たり前」を声を大にしてさけぶ人はいないもんだ。

わかりやすい例を話そう。僕が育った地元は正直言って品がよくなかった。中学校なんて本当に荒れてた。例えば体育の授業でクラス対抗でサッカーをやる。そうすると、どちらかのクラスが負けることになる。サッカー部が有名だったから、大体どちらかのクラスにサッカー部のやつがいて、負けたクラスにいたやつらは気に入らないわけだ。そうして、大体誰かを負けた原因(げんいん)にする。太った子とか気の弱い子とか、運動があまり得意でない子、そういう子らをクラスの後ろに並べてどなりながらぶん殴るんだ。僕の中学校ではそういうのが「当たり前」だった。そして、他のみんなはそれを止めようともしないのが「当たり前」だった。

でも高校はちょっとした進学校だったから全然そういうふんいきじゃなかった。そこで僕は「当たり前」っていうのは誰かが勝手に決めたことで、多くの場合はそんなの他の世界の「当たり前」じゃないってことを知った。今僕には子供がいて小学校に通っているんだけど、アメリカの学校じゃ小学校でも幼稚園でもクラスの友達に手をだしたら、学校から追い出される。こんな風に「当たり前」ってのは「みんなの当たり前」じゃないことの方が多いから、それにあまりひっかからないようにしてほしい。

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